【本の感想】

『永遠の仔』

 ハードカバーの小説をマトモに買ったのは、いったい何年ぶりだろう。
 私は普段、高くてデカくて読みにくいという理由でハードカバーの本を避けていて、自分で買うことなどほとんどないのだが、今回はちょっとした経緯もあり、大絶賛の声とともに聞こえて来たこの作品のタイトルを書店で探してみる気になった。いざ書店へ行ってみると、探すまでもなくこの本は一番目立つところに「ドーン」とばかりにタイル状に並べられていて、そこへ歩み寄って手に取るのが恥ずかしいくらいだった。ベストセラーであること、手放しの絶賛の声が聞こえて来ることなどは、私のような底意地の悪い人間には興味とともに悪感情を抱かせ、いきおいその作品をあら探しの目で読んでしまいがちになる。それもまた尻の穴の小さい話なので、なるべくそういう邪念を頭から追い出すように心がけて読むようにはしているのだけれど、その辺にはまだ今一つ自信がない。今回もとりあえず、あまり深く考えずに感じたところを率直に書いておく。

 非常に真摯な姿勢で、真っ直ぐに書かれた物語だな、というのが、読み終えての一番大きな感想だ。言いたいことを、かなり直接的な形で、解りやすく、そして誠実な視点で書かれていると感じた。私としても、そうそうしょっちゅうはないくらいに心を動かされた。共感出来る部分も多い、いい作品だと思う。

 …が、気に入らない部分も多くある。
 まず一番残念なのは、主人公の優希に最後まであまり感情移入出来なかったこと。原因は明らかで、このキャラクターが「絶対的な善」の心を持つ人間として描かれているからだ。この作品では、全体的にかなり善と悪の区別がはっきりしている。善と悪が混じり合ったり絡み合ったりはするのだが、それでも確実に善と悪がしっかりした善と悪として存在しているのだ。それは作品世界での最も根本的な価値観というか世界観がはっきりしているということで、読む者には安心感と安定感を与えるが、それと引き換えに、大きく心を揺さぶることが難しくなる。私はこのために、作品の終盤に読み進むまであまり物語に引き込まれる感覚がなく、正直言ってかなり幻滅していた。終盤になってその辺が一部崩れて来て、同時に私も物語に引き込まれて行ったのだが、それでも優希に関しては最後まで相変わらずだった。私としては、終盤で笙一郎にはかなり感情移入して、心を動かされもしたのだが、優希については憐憫や同情は感じるものの、最後までピンと来ない部分が残り、共感は出来なかった。これは私が個人的に笙一郎に自分と似た部分を感じたということもあるかもしれないが、やはり優希というキャラクターの描かれ方に作為的、あるいは非人間的なものを感じてしまったことが大きいと思う。
 やや乱暴な言い方をすれば、これはつまり作品全体に「きれいごと」の匂いがするということだ。もっとも、だからこそ素直に泣けるし感動も出来るという読者も少なくないと思うし、「きれいごと」がすなわち作品の質を落とすとは思わない。ただ私は個人的に、人間の醜い部分やそこから来る悲劇を大きく取り上げるドラマに月並みな「きれいごと」が持ち込まれるのが大嫌いなため、この辺には敏感になってしまっているのだと思う。結局は好みの問題なのかもしれない。
 キャラクターの描かれ方に関しては、あまりにも率直でストレートで真っ直ぐで、悪く言えば芸がないとも感じた。人間は、こんなにも同じ感情を同じように持ち続け、同じ痛みや苦しみを同じように感じ続けているものだろうか、という疑問が私には拭えない。それだけ主人公たちの痛みと苦しみが大きかったのだという見方はあるかもしれないが、そういう問題ではないように私は思う。人の心にはもっともっと大きなうねりがあって、奥底に巨大な痛みや苦しみを抱えて片時もそれを本当に忘れることなど出来ないとしても、忘れたと錯覚出来る時があったり、全く関係ないことで落ち込んだり、時には痛みそのものを誇りに思うようなことがあったり、とにかくもっと多彩な変化をするものだと思う。実際には主人公たちもそうして生活しているということなのかもしれないが、具体的にそういう描写がないので、どうも一本調子に思えてしまう。この辺も、私がうまく感情移入出来なかった原因の一つだと思う。

 この作品のテーマは、乱暴に言ってしまえば、「自分の存在を許せるかどうか」という「例のアレ」である。こんな言い方は不謹慎だとは思うが、それほどまでに昔から繰り返し繰り返し描かれ、語られて来た、オーソドックスな、悪く言えばありがちなテーマだ。
 そんな中でのこの作品の特徴は、主人公やメインキャラクターだけでなく、サブキャラクターや時にはチョイ役にまで、つまりは「全ての人々」に対してそのテーマが適用されているところだと思う。これによって、「自分の存在を許せるかどうか」から一歩進んで、「そういう迷いを持った人間同士の関り合い」を描こうとしているところがこの作品の大きな魅力になっている。そして、その「関り合い」の多くが「親子」だったりするので、問題はより重く切実になるのだ。
 しかし、この作品は結局、その重く切実な問題を提示しただけで終わってしまっているようにも思える。もちろん、そんな問題にはっきりと納得出来るような答えを出すことが出来たとしたらその方が驚異だとは思うが、この作品の場合は、少年時代への甘いノスタルジーや単純な自然崇拝や、ミステリードラマとしての解決という要素に溶かして、問題に一応の決着がついたように見せかけているように思えるところが私には気に入らないのだ。そんな風にごまかしてしまったら、物語の構成としての格好はつくものの、せっかくの重いテーマがぼやけてしまうのじゃないだろうか。

 もう少し表面的な部分では、そもそもこの作品の安易なミステリー小説風の構成が気に入らない。主人公に関する「過去の謎」をエサにして読者を引っ張りに引っ張るというやり方、そして二つの時系列を平行させて交互に描き、読者の興味を引きつけようというやり方。どちらもミステリー小説の常套手段だ。私はもともとこれらの手法があまり好きではないが、この作品ではそれがまたあまり効果を挙げていないように思える。やたらに長いこと引っ張られた揚げ句に明かされるいくつもの「謎」の真相は、どれも完全に予想の範囲内で意外性がなく、無駄に引っ張られたという失望感が大きい。交互に描かれる二つの時系列も、描写のシンクロがわざとらしく感じられ、前後を入れ換えた事実の提示にもやはり意外性がなく、これなら時間の経過をそのままの形で描いた方が、大河ドラマ的な魅力が出て良かったのではないかと思える。
 この作品の本質がそういうところにないことは、もちろん解っている。だからこそ逆に、こういう小細工で読者を翻弄することはせず、そのままの形で描き切った方が良かったのじゃないかと思う。読者としては、どうしても表面的な細工に引っ張られて読んでしまうものなのだから。

 そしてもう一つ残念なのは、会話の不自然さだ。私はとくにこの辺に敏感な方だと思うのだが、それをさっ引いて考えてもやはりこの作品の会話は不自然だと思う。やたらと説明的なセリフが多いし、言葉遣いもいかにも小説という感じだ。そして子供のセリフもほとんど同じ調子で書かれているので、殊更に違和感が大きい。この作品ではキャラクターとしての子供の描かれ方がかなり安易だと感じる部分が多いのだが、セリフに対する大きな違和感でそれが助長されているように思える。「子供=無垢な人間」というある意味凡庸な図式が貫かれていることへの不満から、またそれを強く感じるのかもしれない。

 なんだか文句ばかりを沢山並べてしまったが、最初に書いた通り、私はこの作品を高く評価している。それだけに、感じるところも沢山あるということだろう。
 私はこの作品を手放しで絶賛する気にはならないし、似たテーマの作品としてどうしても『新世紀エヴァンゲリオン』などの方により魅力を感じるが、日ごろのポリシー(?)を曲げて久しぶりにハードカバーで小説を買ったことを少しも後悔していないことは確かだ。

1999/04/29
『永遠の仔』
天童荒太 著
幻冬舎

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