フィリップ・K・ディック作品って、こんなに読みやすかったかなあ?…というのが、この本を読んでの最初の感想。
私がディック氏の作品を何冊か読んでみたのは確か中学生の時だったが、その時の印象は、文章自体は決して読みにくくないけれど、表現にも内容にも隠喩的な要素が多くて、しっかり意味を汲み取ろうと思うと一生懸命読まなくてはならず、どうも疲れる…というものだった。だから、それ以来何となくディック作品に手を出せずにいたのだ。今回読んでみる気になったのは、この本の「スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演で映画化!」という売り文句を書店で見かけ、ミーハーな興味を引かれてしまったからである。とくに意識しているつもりはないのだけれど、どうも最近、映画の原作本を読むことが多いようだ。私も人間が出来て来て、軟派な本の読み方に抵抗がなくなったのだろうか(笑)。
この本に収められている7編の作品は、どれも読みやすく解りやすく、私が抱いていたディック作品へのイメージとはかなり違ったものだった。ディック作品というとどうしても私の中には「サイバーパンクの草分け」というイメージがあるのだが、これらの作品はむしろアシモフ作品やシェクリィ作品のような、古き良き、スッキリとしたSFという趣を感じる。中にはフレドリック・ブラウン作品のような雰囲気があったり、ドタバタのパロディ作品があったりで、私の先入観は見事に打ち砕かれた。何事も、慌てて結論を出してはいけないということだろう。
映画原作といえば、この本にはアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画『トータル・リコール』の原作である「追憶売ります」も収録されている。原作と映画がまるで違うものになるというのは別に珍しい話ではないが、この作品に関してはそれでもちょっと驚いてしまった。「追憶売ります」という短編小説は、どちらかというと皮肉の利いたショート・ショートという趣の作品で、どう考えても映画の原作向きとは思えない。確かに『トータル・リコール』の序盤は「追憶売ります」の基本設定とシチュエーションを大筋で採用しているが、それ以外は全く別物と言っていい。それ自体は驚くべきことではないのだろうけれど、私が驚くのは、どうして「追憶売ります」を読んで『トータル・リコール』のような映画を作ろうと思えるのか、あるいは、どうして『トータル・リコール』のような映画の原作が「追憶売ります」でなければいけないのか、という疑問を強く感じるからだ。もし「追憶売ります」にインスパイアされて『トータル・リコール』まで構想が変化したのなら、そもそもの設定まで変更して完全オリジナルにしてしまえばいいだけの話のように、私には思えてしかたがないのだ。それとも、「フィリップ・K・ディック原作」というテロップは、映画の興行成績に大きく影響するほどの強い売りになるのだろうか…?
そして、この本の表題作であり、「スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演」で映画化される(された)らしい「マイノリティ・リポート」も、どうもこのまま映画にはならないだろうと思えるような作品なのだ。アクション・シーンはあるものの、シチュエーション的に映画としての華が足りない気がするし、ベースとなっているテーマはかなり理屈っぽいし、そして一番決定的なのは、主人公のイメージがトム・クルーズとはまるでかけ離れているのだ。恐らく、映画はまたしても原作とは全く違う作品に仕上がっているのだと思う。それが果たしてどんな風に出来上がったのか、かなり興味を引かれるところではある。