1995年度のネビュラ賞を受賞した長編SF。
この作品は、SFであり、ミステリ作品であり、サスペンス作品でもあり、ちょっと社会派の臭いもあり、主題は多分に哲学的でありながら、シチュエーションは身近な人間ドラマでもある。正直言って、個々の要素は大したことがない。SFとしてはお粗末だし、哲学的な考察をどうこういう以前に価値観や倫理観は完全にアメリカ的キリスト教的に穏健な範囲をはみ出しもしないし、ミステリとしては驚きと説得力の両方に欠け、サスペンス要素はありきたりで、登場人物は薄っぺらい。しかし、それぞれの要素が見事に調和して一本の作品になっているところは特筆すべき美点だと思う。凡庸なエンターテイメント作品では、個人の成功とか家族の愛情とかの問題と、殺人とか生命の危機とかの事件と、社会的な問題や時には人類の存亡などという問題を、何も考えず同時に、そして同列に扱うことで読者(や観客)の共感を得ようとし、逆にあらかたの説得力を失ってしまうというパターンがよくある。この作品でも図式はそれに近いのだが、全ての要素が自然に絡まり合うことで一つのストーリーになっていて、大きな破綻が感じられない。これはかなり希有なことだろう。
だから、なかなか楽しんで読むことは出来た。わりと地味なストーリーでありながら、主人公の行動と心の動きを中心に据えて醸し出したサスペンス性と、折りに触れて小出しにされる社会風刺センスはかなりイケている思う。でも、フーダニット・ミステリとしてはまるで意外性も説得力もないし、哲学的(?)な考察は浅いし、主人公を含めた人物にもとくに魅力はない。そして何より、テクノロジ、とくにコンピュータに関する知識と認識が決定的に不足していて、記述があまりにもお粗末だ。この作品では2011年という近未来を舞台にしていて、特別なSF的な要素は何もない。要するに、現在あるテクノロジーが少し先にはこれくらいまで行っているだろうというだけのことなのだが、それだけに説得力のあるリアリティが要求されるところを、この作品は完全に「ハズして」しまっている。
コンピュータやネットワークに関する無知は明らかで、作者は電子メールとBBSの区別もついていない。OSという概念も知らない。2011年という時代に、非常に裕福な技術者が、自宅で電話と共用のアナログ回線を使ってモデムでネットワークにダイヤルアップ接続しているなどと、平気で書いてしまう。コンピュータ端末の操作は基本的に全て音声による「コマンド入力」になっていると設定し、システムへのログイン時にパスワードまで声に出して言わせてしまう。SFにおいて、必ずしもテクノロジやコンピュータに関して正確無比な記述が必要だとは私も思わないが、1980年代以前の作品であればまだしも、1995年に発表された2011年が舞台の作品がこれでは、さすがにマズイんじゃないだろうか。
また、「近未来的」なテクノロジが近未来の世界に自然に溶け込んでいることを表現するセンスというものをこの作者は持ち合わせていないらしく、「三週間にいちどはリニアモーターカーで向うへ出かけていたんだ」とか、「ふたりは大学時代もずっと連絡をとりあい、インターネットで電子メールをやりとりした」とか、「タイム誌の今週号をネットからダウンロードして、ざっと目をとおした」だとか、「コンピュータ化された住所録をざっとながめて、目的の電話番号を見つけだした」だとかいう記述がゾロゾロと出て来る。コンピュータ化されていない住所録の方が珍しい時代なら、コンピュータ化された住所録は単に「住所録」であって、「コンピュータ化された住所録」とは呼ばれない。リニアモーターカーを普通に利用している時代の人が、それを「リニアモーターカー」と呼ぶだろうか?1995年頃の人は、「ちょっと隣町までガソリン自動車で行って来るよ」などと言っていただろうか?こういうマヌケさは、サイバーパンクが流行した1980年台以降はほとんど絶滅したと思っていたのだが、どうも全然そんなことはなかったらしい。
つまるところ、ソウヤー氏はストーリーテラーとしてのセンスと社会風刺のセンスはいいものを持っているが、SFのセンスは全く持ち合わせていない、というのが結論だろうか。もちろん、だからといってこの作品が駄作だということにはならないし、一作だけを読んでそう決めつけてしまうのは乱暴でもあるけれど、どうも私にはそうとしか思えないのだ。