安彦良和氏は、私の最も好きなアニメーター/イラストレーターの一人だ。個人的に、絵に関してかなりお手本とさせてもらっているところもある。しかし、マンガに関してはまた少し評価が違ってくる。確かに氏のマンガを書店で見かければ読んでみたいと思うし、実際にかなり読んでもいるのだが、どうも「好きなマンガ家」とまでは行かない。私は氏のマンガを読み終えると、なんとなく「食い足りなさ」のようなものを感じてしまうのが常なのだ。今回読んだ『ジャンヌ』でも、それはあまり変わらなかった。
ジャンヌ・ダルクの死から9年後、奇しくもジャンヌと似た運命をたどる事になる少女エミリーが、ジャンヌの幻に導かれ、「プラグリーの乱」に揺れるフランスを駆け抜ける物語。史実を下敷きにしたフィクションである。いかにも安彦氏のマンガらしいというか、スケールの大きな魅力的な設定だ。思うに、氏は「人間の運命」とか「国家の思惑」とかいった「大きなもの」に翻弄されつつ必死であがき成長する人間(少年)の姿に、とくに大きな魅力を感じているのではないだろうか。この辺りの感覚が、氏のマンガに共通しているように思える。ただ、そうなるとどうしても根底に「人間の無力さ」を引きずりながら物語が描かれることになり、氏の作品ではそのあたりがかなり露骨に投げかけられる。私が今一つヒいてしまうのは、そのあたりに原因があるのかもしれない。この『ジャンヌ』ではまたそれが顕著で、「人の力がなに!? 自由がなに!?」「あなた以上のものに、あなたは従いなさい!!」なんていうセリフまで飛び出してしまう。この辺がどうも私の人生観とは相容れないところなので、私は安彦氏の絵が大好きであるにもかかわらず、氏のマンガをあまり追いかけずにいるのかもしれない。
もう一つ思うのは、安彦氏のマンガを通して読むと、どうも尻すぼみのような印象が残ってしまうということ。最初のうちはスケールの大きな設定と世界の広がりを感じさせる展開にグイグイ引き込まれて読むのだが、最後はストンという感じでとりあえず事件に決着がついて終わる、といった感覚があるのだ。後になって客観的に見てみると、ちゃんとクライマックスはあるしラスト近くの「見せ場」も用意されているし、設定やキャラクターについても一応納得の出来る終わり方をしているしで、あまり文句をつけるところが見当たらないのだが、なぜか印象は「尻すぼみ」なのである。これは一体どういうことなのか考えていたら、どうも安彦氏は「場面の見せ方」や「雰囲気を盛り上げる描き方」が巧すぎるのではないか、と思えてきた。物語の序盤では、とにかく「カッコイイ描写」や「ドラマチックな場面」、「気分を盛り上げる展開」などで読者を引き込むことが重要である。そして、中盤ではストーリーの「意外性」や「緊張感」などの要素で読者を引っ張り、終盤で一番大きなカタルシスをぶつける、というのがセオリーだろう(と思う)。それが、安彦氏のマンガでは「見せ方」や「描写」があまりにも巧くて読者の期待感を大きくしてしまうため、中盤の展開やクライマックスからラストのカタルシスが生半可なものでは拍子抜けしてしまうのではないだろうか。とくに史実を下敷きにしているとなれば、ラストで大きなカタルシスを演出するのが困難だということもあるだろう。エラソーな言い方になるが、安彦氏の場合は非常に卓越したビジュアリストとしての技量にストーリーテラーとしての技量が負けてしまっている、ということではないかと思うのだ。
『ジャンヌ』で気になったのは上記のセリフもあるが、もう一つは王太子の扱いである。登場時の王太子の悪役(?)ぶりはとても堂に入っていて、言うことにも非常に説得力があり、それがエミリーの迷いのもとになるというのも頷けるものだった。しかし、終盤の王太子は単にやさぐれるばかりで魅力の薄いキャラクターになってしまった。人間というのは案外そんなものなのかもしれないが、物語としての面白味がそがれてしまったことは確かだと思う。ラストの締めくくりも今一つ納得が行かないが、ここはまあ史実というものがあるのだから仕方のないところなのだろう。
…と、ここまで文句ばかり書き並べてしまったが、この『ジャンヌ』には一つとても凄いところがある。なんとなんと、オールカラーのマンガなのだ。オールカラーということは、全ページカラーなのである。「オールカラー」と言いつつ冒頭以外は2色刷ということがよくあるが、この作品ではそんなことはなく、全て4色刷だ。安彦良和氏のマンガを全ページカラーで読めるというだけでも、ファンにとってはたまらないことだ。実際、絵や色使いに見とれてしまうこともしばしばという本になっていて、ある意味とてもお買い得かもしれない。
結局、マンガとして一読した印象は今一つだったが、しばらくしたらもう一度、今度は絵をじっくりと眺めながら読み返してみたいと思っている。