とても丁寧に作られた映画だな、というのがまず第一印象。画面の作り方にも俳優の演技にも脚本にも、じっくりと作られた余裕のようなものを感じる。SF映画をこんな風に作れる、また作らせてもらえるアメリカ映画界には羨望を感じてしまう。
そんなわけで、この作品は映画としてのクオリティがかなり高いと思う。ある程度好き嫌いは分かれると思うが、SF映画が好きではない人にも勧めてみる気になる作品だ。
しかし、引っかかる部分もある。一番大きいのは、「宇宙は神秘だ!科学はロマンだ!」と何の疑問も持たずに叫び立てているような心情が背景に流れていること。この映画では異星人とのコンタクト計画に反対する人間は全員、頭が固いか頭が悪いか、さもなければ狂信者として描かれている。主人公は何の手がかりもアテもない段階で、異星人探索を「人類史上最大の発見」を実現する事業だと言い切るのだ。そもそも、主人公はなぜこんなにも焦ってこの計画を進めたがったのか。あまり詳しく説明されてはいないが、画面から読み取れる限りでは、主人公の研究は総当たりのしらみつぶし式で、よほどの幸運を期待しない限りはとても一人の人間が生きているあいだにやり切れるものではなさそうだった。技術の進歩によって成果を得られる確率が高まったというのは解るが、それにしても具体的な見込みがあるのでなければ「今やらなければならない」理由にはならない。そうでないのなら、単に主人公は「自分がやりたかった」だけということになってしまう。私なら、そんな人物に税金を使われたくはない。恐らくはもう少し説得力のある設定が背景にあるのではないかと思うが、だとすれば決定的に説明不足だ。クジラやイルカと話すことも出来ないのに異星人とコンタクト出来ると信じて疑わない神経というのは、私にはどうしても少々異様に思える。
また、この作品では「孤独」がキーワードになっているが、それを「地球人類としての孤独」と「一人の女性の人生の孤独」をストレートに重ねて描いてしまうやり方は、やはりアメリカ的能天気だと思える。それがじっくりと丁寧に描かれているのでかなり救われてはいるのだが、個人的な理由から来る個人的な情熱を人類の利益とごっちゃにしてしまうのは、やはり少々マズイんじゃないかと思う。
私にとっては少々直情的に聞こえる「宇宙は神秘だ!科学はロマンだ!」という叫びも、子供が科学を好きになるキッカケを作ることは出来るだろうし、多くの人に胸踊る楽しみを与えることも出来るだろう。この作品は、その目的に充分足るだけのクオリティで作られていると思う。なるほど、本作は一種の教育映画、あるいは扇情映画なのかもしれない。
私はカール・セーガン氏に対して特別な思い入れはないので、この作品も単純に一本のSF映画として観たが、世にあまたいるセーガン氏の信奉者たちにとっては特別な感慨があるのではないかとは思う。