宮崎駿監督作品ということで、世間の前評判も私の個人的な期待も大きくなり過ぎた感はあるのだけれど、それはもう状況として致し方のないことなのだから、どうこう言ってもはじまらない。そういう状況の中でこの作品を観た私の正直な感想としては、充分に面白くはあったものの、大いに拍子抜けでもあった。
この作品は、ビジュアル的に非常に良く出来ていて、また面白い。アニメーションとしての動きや表現の面白さだけでなく、絵的なイマジネーションとアイディアに富んでいて、観ていてワクワクさせられる。とくに、湯屋にやって来る「八百万の神々」のデザインや様子は目新しいまでに活き活きとしていて、ある意味エキサイティングですらある。
また、細かな演出の密度の濃さにも感心させられる。釜爺のようなトラディショナルなキャラクターの活かし方とか、ススワタリや坊ネズミなどのマスコット的なキャラクターの魅力をうまく盛り上げる小技の使い方とか、一つ一つが実にうまく機能している。この辺はもう、職人芸という感じだ。
…が、どうもそれだけだったのだ。私は個人的に、この作品からは上記のような魅力だけしか感じられなかった。普通だったらそれで充分に娯楽映画として合格点というか、それ以上の評価になると思うのだが、やはり宮崎駿監督作品に対する期待の大きさ故か、私としてはかなり拍子抜けという印象が残ってしまった。これではとても公平な評価とは言えないが、もとよりこれは公平性などどこ吹く風の、私個人の勝手な感想なのだから仕方がない。
どうも私は、最後まで主人公の千尋にうまく感情移入出来なかった。
冒頭で無気力な「ぶーたれ顔」をしている現代っ子千尋が、不思議の世界に迷い込んで否応のない状況に追い込まれた時に、自らの中に眠り淀んでいたエネルギーを開放して、困難に立ち向かう(つまりはそれが「生きる」ことでもある)ためのバイタリティを発揮する、というのがこの作品の骨子なのだと思う。ここで重要なのは、よくある「様々な困難に立ち向かううちに主人公は成長し…」というプロットではないということだ。千尋は成長するのではなく、自分が予め持っていたエネルギーを開放するだけなのだ。「火事場の馬鹿力」とはちょっと違うかもしれないが、それに近いような感覚で、普段は弱々しかったり頼りなかったりする人が、ある時「やるしかない」状況に追い込まれて意外な強さを発揮する、というのは普通によくあることで、わりと誰にでも経験があると思う。私は個人的にそういう現象を「スイッチが入る」と表現したりするのだが、つまりその「スイッチ」や「秘められた強さ」を元々持っていないように思われがちな「最近の子供たち」にも、やはりそれはあるはずなのだ、本人や親も含めたみんなが忘れているだけなのだ、というのがこの作品のメッセージなのだと私は解釈している。
そう解釈しているのだが、正直言ってこれはパンフレットを読んだりもしながら私がよくよく考えて捻り出した解釈であって、作品からはそれがストレートに伝わって来なかったのだ。湯屋で働き始めた千尋の「変貌」はなんだか唐突に感じられ、「急にたくましいイイ子になっちゃった」ように見えた。「成長」でないからにはその変化がある程度唐突なのは当然なのだろうと思うが、そこで「スイッチが入った」のだという実感が伝わって来なかったために、ぶーたれ現代っ子が翌日からナウシカになっちゃったような強引さを感じてしまうのだ。
結果として千尋にとっての大きなモチベーションとなるハクとの関係も、何やら説得力が薄いように思えた。ハクがどうして千尋を小さい頃から知っていて、今も絶対的な味方なのかという謎は、この作品の表面的なプロットにおける最も大きな「引き」の要素だと思うのだが、その答えが「ハクはある河の神で、小さい頃に溺れかけた千尋を助けたことがある」というのは、なんだか唐突で演出効果が薄いし、そもそもそれで答えになっているのかな、という気もする。千尋が小さい頃に河で溺れかけた記憶があることを事前に伏線として出しているのならまだしも、終盤で突然「そうだったんだよ」と言われても、観ている方としては「はあ、そうですか」としか感じられない。それにそもそも、どうしてハクがああまでして千尋の味方をするのかという理由が全然説明されていないではないか。「小さい頃に助けたことがある」というのは、今も絶対的な味方でいる理由になるのだろうか? それじゃあどうしてその時に、ハクは溺れかけた千尋を助けたのか?
そう考えると、「きっとまた会える」というハクの言葉も、なんだか取ってつけたように感じられてしまうのだ。私は、ラストのスタッフロールの後で、千尋が何らかの形でハク(と関係するモノ?)と「再会」する描写があるのじゃないかと期待…というよりほとんど確信を持って観ていたのだが、結局はそれどころか「おしまい」の文字以外何もなかったことに、逆に驚いてしまった。「こんな終わり方でいいのか?」と。
「要するに、千尋が不思議の世界に迷い込んで、そこで『スイッチが入る』体験をして、また戻って来た、というだけのことなんだよ」と言いたいのならそれはそれでわかる気もするのだが、あまりにも徹底し過ぎているように私には思えた。描かれている限りでは、「帰って来た千尋」は作品冒頭の千尋と何ら変わっていないように見えるし、「あっちの世界」での経験を覚えているのかどうかも判らない。「千尋はこれで成長したのだ、全てが良くなったのだ、めでたしめでたし」ということになってしまうのを避けたかったのだろうとは思うのだが、それでもせめて、「些細な変化」とか「未来の予感」みたいなものくらいは描いて欲しかったと私は思うのだが、どうだろうか。
ラストと言えば、イマイチ納得出来ないことがもう一つ。千尋は「こっちの世界」に帰るにあたって、「あっちの人々」と別れる辛さを感じなかったのか、ということ。もちろんハクとの別れを惜しむ描写はあったのだが、それはそれとして、あれだけ世話になって、最終的に認めてもくれた釜爺やリンには一言の挨拶もナシでいいのかい、と。つまり、千尋は「こっちの世界」でこれまで得られなかったいくつかのものを「あっちの世界」で得たはずで、それはハクよりもむしろ釜爺やリンとの関係のうちにあったはずだと思うのだ。それと別れるのは当然残念で悲しいことだと思うのだが、そういう描写がなされていないために、千尋が「あっちで何かを得た」のだという実感も残りにくくなっているのじゃないだろうか。
湯婆や銭婆、カオナシといった面白味のあるキャラクターが今一つ描き切られていないような気がすることにも、少々不満を感じる。湯婆に関しては単純に「強欲」というキーワードを人物化しただけだと考えれば納得出来ることは出来るのだが、かなり人間味のある描写が多くなされていただけに、もっと人物としての魅力が出ても良かったのじゃないかと思えて残念だ。銭婆は穏やかな面と苛烈な面を併せ持つ大きな人物という設定なのだろうと思うが、人として何を欲しているのかがどうも解らなかった。そして、カオナシはキャラクターとしての悲しさがよく出ていて面白くもあったのだが、それが最終的に銭婆の「あんたはカオナシだね。ここに留まって私の手伝いをしておくれ」(実際はもう少し違ったセリフだったと思うが)で決着してしまうというのは、どうにも安易に感じられてしまうのだ。
そんなわけで、私はこの作品にかなり色々な不満を感じたわけだけれど、それは裏を返せば色々な不満を感じるくらいにインパクトのある作品だったということでもある。上記のようにビジュアル的な面白さは特筆ものだし、とにかく誰もがとりあえず観ていて楽しいと感じられる仕上がりになっていると思う。これはやはり、物凄いことだと言わざるを得ないだろう。
宮崎駿監督の次回作に期待。…なんて安易に言っちゃっていいものかどうか判らないが、それでも一ファン(文句の多いファンもいたものだが)として、とにかくそういう願いで締めさせていただきたい。