家の周りをウロウロしながら、切羽詰まったような声で猫が鳴いている。私とは顔見知りの猫だ。私が勝手につけたニックネームは「バットマン」。メスである。黒白柄のこの猫は野良にしては妙に人懐こく、道端でも私が近寄ると擦り寄って来て、撫でてやると嬉しそうに(当社比)する。何度もそんなことをしているうちに段々と慣れて来たのか、どうやら向こうもかなり確実に私の顔を覚えているようなのだ。
昨日、いつものように道端でその猫と顔を合わせたのだが、どうも普段と様子が違っていた。ここしばらくお腹が膨れているのを見ていたので、いよいよお産の時期なのかと思って触ってみると、意外やお腹はしぼんでいて、代わりに乳房が膨らんでいた。その巨乳猫が、何やら私を誘うような素振りをする。これはもしや仔猫を見せてくれるのではと狭い路地の中までついて行くと、そこには適当な大きさのダンボール箱が置かれていた。バットマンは箱の前でこちらを振り返り、ニャアと鳴いた。恐る恐る私が箱の中を覗くと、そこにはやや汚れた新聞紙が敷かれているばかりだった。バットマンは我が子を探していたのである。
バットマンの子供(たち)がどうなったのか、私は知らない。ダンボールを用意した人物によってどこかへ里子に出されたのか、あるいは保健所へ送られたのか、はたまた近所のいたずら小僧たちに持ち去られたのか…。とにかくバットマンは今も鳴き声をあげて辺りを探し回っているのだ。その声は私の聞く限りサカリがついた時期にパートナーを求めてあげる声とほとんど違わないのだが、今日ばかりはとても悲痛な響きとして胸に刺さって来るような気がする。
…しかし、それもまたおかしな話である。いなくなった子供を探す親猫の声は悲痛で、サカリのついたメス猫の声はそうでもなく、むしろやかましかったりもするなんて、実に手前勝手な解釈というものだろう。よくよく考えてみれば、猫にとっての切実さ、狂おしさはどちらも変わらないはずなのだ。勝手に人間の基準にあてはめて考えるからそんな風に感じるだけなのだ。子を思う親の叫びは悲痛で、異性を求める求愛者の叫びは、多少気の毒ではあっても時にはむしろ滑稽ですらある、などと。
…しかししかし、本当にそうだろうか?人間においての基準だとそうなるのだろうか?
たまたま今日TVで、嫁不足に悩む離島の男性たちが都会から来た女性たちと集団見合いをするという番組を観た。御存知の方はよく御存知だろうし、気に入らない方はさぞウンザリされていると思うが、要するにひたむきに結婚相手を求める人たちの真剣さとそこから生まれるドラマを見物して楽しみ、また感動しようという趣向の番組だ。実際、そこにあるリアルなドラマには人を感動させる要素が充分に感じられる。当事者たちの懸命な姿は観る人の心を動かすのだ。
…で、サカリのついた猫のひたむきな叫びは、これと何か違うだろうか?猫は単純に交尾の相手を求めているだけだから比べられない?本当にそうだろうか?猫だって真剣にパートナーを求め、自分の子供を産んで育てたいという欲求を懸命に表現しているのではないのだろうか?そもそも、性的欲求というのは人間でも猫でもそういうものなんじゃないだろうか?人間が結婚したがるのもそういう欲求からだとは言えないだろうか?むしろ、単に交尾だけを目的として異性を求める傾向は、人間の方にあったりはしないか?
確かなのは、バットマンの叫びはいつでもひたむきで切実だということだ。それを場合によって勝手にうるさがったり痛いほど同情したりしている私は、なんと傲慢なことか。
それでもやはり胸に痛く響いて来るバットマンの鳴き声を聞きながら、私は一人恥じ入るしかないのだ。