【雑文】

『煙草嫌いの憂鬱』

 私は、かなり極端な嫌煙者である。子供の頃から呼吸器系が弱いことや、割と鼻が利く方であることなど色々と原因はあると思うが、とにかく煙草の煙と臭いに対する拒否反応が強いのだ。はっきり言って、煙草なんてものはこの世から無くなってくれた方が有り難いと思っている。
 近頃は世間でも嫌煙論が幅を利かせるようになって来て、公共の場で禁煙のエリアが増えたり、煙草の広告が制限されるようになったりしている。私にとってはある意味好ましい変化ではあるのだが、実を言うと納得の行かない部分がかなりある。喫煙者と嫌煙者の主張のぶつかり合いというのはずっと以前からあって、これまでにも散々泥仕合が展開されてきたわけだが、ここへ来て嫌煙者の声が大きくなっていることからか、その「泥仕合ぶり」がますますヒドくなり、双方とも主張や行動が無茶ばかりになって来ている気がする。
 そこで世のため人のために私が立ち上がって煙草論改革を、などと思っているわけではもちろんないが、一人の嫌煙者として努めて客観的に自分の意見をまとめてみたいと思う。
もしその結果が良識ある喫煙者の方々の参考になれば、願ったり叶ったりである。

 まず、良識ある喫煙者の方々の反発を和らげるために(笑)、ヒステリックな嫌煙論者への攻撃から始めることにしよう。

 いきなり結論から言ってしまうと、こうしたバカ嫌煙論者たちの最大の間違いは、煙草イコール悪と決めつけてこの世から抹殺しようとしていることである。煙草のどこが、なぜ悪いのか、本当に悪いのかという問題を検討しようともせずに「とにかく悪」として排除しようとするやり方は、ポルノや「有害情報」、また携帯電話などの問題にも見られる、「自分の気に入らないものを問答無用で悪と決めつけて排除したい」という蒙昧な衝動から来ているとしか思えない。そんな主張が暴力以外の手段で相手に受け入れられるわけがないのである。
 それでは、煙草がなぜ悪いと言われるのかを冷静に考えてみると、大きく二つの理由があることがわかる。

・煙草の煙は健康に害があるから
・喫煙行為は他人に迷惑を及ぼすから

 バカ嫌煙論者たちは、主に前者の理由を拠り所としている場合が多い。「健康に悪いものイコール悪」という図式が、考え方によっては一般に受け入れられるものだからだ。だが、これが大きな間違いなのである。煙草を吸って健康に害があるのは、主に本人だ。法律でも許されている煙草を本人が好きで吸って健康を害するなら、それはその人の勝手なのである。他人がそれについてどうこう言う権利はそもそもないのだ。煙草の煙によって吸っている本人以外の健康にも害があるという主張もあるが、いつも一緒にいる家族などならいざしらず、他人がそれを言うのはいかにも説得力がない。むしろ「都会に住んで毎日排気ガスを吸って暮らしてるくせに、よく言うよ」ということになってしまうのである。
 つまり、他人である嫌煙者(家族などの場合はまた違う話になるのでここでは考えない)が喫煙者に対して何か言えるのは、後者の理由においてのみなのだ。言い換えれば、撲滅すべきは煙草による迷惑であって、煙草そのものではないのである。

 バカ嫌煙論者の主張に説得力がないもう一つの大きな理由は、喫煙者以外の全ての人間を代表しているかのようなものの言い方をすることである。つまり、喫煙者以外は全員が嫌煙者で、その全ての人が煙草を撲滅したがっているという前提で主張するのだ。そんなわけはないのである。自分では煙草を吸わないけれど、他人の吸う煙草の煙などをとくに迷惑とは感じていない、単なる「非喫煙者」は沢山いるのだ。そもそも煙草に関する論争の最も厄介な点は、人によって感じ方がまちまちだという事実だ。他人の吸う煙草の煙を全く意に介さない人もいるし、多少迷惑に感じてもさほど気にならないという人もいる。結構苦痛だがちょっと我慢すればいいという人もいるし、息苦しくてどうしようもなくなってしまうという人もいる。喫煙者の煙草に対する欲求の強さが人それぞれである以上に、非喫煙者の煙草の煙に対する反応も実に様々なのである。
 この点を理解せずに嫌煙者が煙草による迷惑を主張すると、槍玉に挙げられた喫煙者にしてみれば、「じゃあどうしてあっちの人は何も言わないの?あんたが特別に悪意を持ってるだけなんじゃないの?」と思えてしまうわけだ。そして、既に述べたようにこういうバカ嫌煙論者は実際に「特別な悪意」を持っている場合が多いので、「ほらやっぱり」ということで喫煙者たちは余計にかたくなになり、何も聞く耳を持たなくなってしまうということになる。
 喫煙者が初対面の人のそばで煙草を吸う時は、その前に「煙草を吸ってもよろしいですか?」と尋ねるマナーがある。これは、どうしてそうするのだろうか。そこで煙草を吸ってもいいかどうかは、周りの環境と状況を見れば充分に判断出来るはずなのに、どうして敢えて尋ねるのか。これはつまり、「この場では煙草を吸ってもいいのですか?」と尋ねているのではなくて、「あなたはそばで煙草を吸われるのがどれくらい嫌ですか?」と尋ねているのである。相手が「どうぞ」と応えれば、それは「敢えてこの場で遠慮していただくほど苦痛には感じません」という意味になるだろう(場合によっては「我慢出来ます」という意味かもしれないが)。
 人によって煙草に対する感じ方が大きく違うというのはこんなに当たり前のことなのに、それを喫煙者のみならず嫌煙者でもまるで認識していないことが多いのは驚くばかりだ。
 つまり、煙草の煙に大きな苦痛を感じる嫌煙者は「私にとって大変苦痛なのでやめてください」という主張をするべきなのである。それならば、他人に対しても言う権利があるだろう。そして喫煙者は、「煙草の煙を大変な苦痛に感じる人がまわりにいる可能性」を主に考えて配慮するべきなのである。逆に言えば、そういう人がまわりに全くいないことが判っていれば、おおっぴらに煙を吐き散らしても何ら問題はないのだ。
 結局のところ、煙草の煙の迷惑は基本的に個人対個人の問題なのである。それが公共の場では相手が不特定多数の個人になるため、より慎重な配慮が必要になるということなのだ。

 さて次は、煙草の煙を大変な苦痛に感じる人(この場合は主に私)は、一体どんな風に感じているのかを説明してみたいと思う。上記のように感じ方は人それぞれなので、「こんな風に感じる人も世の中には数多くいる」という程度の認識で読んでもらえば結構である。それでも、喫煙者にはなかなか実感しにくい部分だと思うので、参考にはなるだろう。

 まず言えるのは、「強烈に臭い」ということである。喫煙者が一番実感出来ないのはここだろう。煙草の臭いというのは非常に強く、遠くまで届き、後々まで残るものなのだ。その臭いをどれくらい不快に感じるかはこれまた人それぞれだと思うが、強烈な臭いであることは確かなのである。香水の臭いであっても、必要以上に強烈ならばそれは不快以外の何ものでもないことはおわかりだと思う。ましてや煙草は、怪しげな草を燃やした煙の臭いなのだ。
 例えば20畳ほどの部屋であれば、誰かが一番遠いところで煙草に火をつけても、私はすぐに臭いで気が付くだろう。もちろん空気の流れの方向によっては気付きにくいこともあるし、非常によく換気されていれば気付かないこともあるかもしれない。しかし、それでも煙が漂い始めたらすぐに気付くと思う。臭いの強さを説明するのは難しいが、私の感覚では恐らく、誰かが一本の煙草を吸った場合の臭いの強さは、コップ一杯のシンナーをぶちまけたのと同じくらいだと思う。喫煙者は「まさか」と思うかもしれないが、少なくとも私には掛け値なしでそれくらいに感じられるのだ。信じて欲しい。香水や体臭の例を持ち出すまでもなく、臭いというのは自分が発している場合や普段から慣れ親しんでいる場合には驚くほど気付きにくいものなのだ。極端な言い方をすれば、喫煙者には煙草の臭いがどれだけ強烈かを感じられるはずがないのである。なかなか難しいとは思うが、そこのところをまず認めて欲しい。
 もう一つ例を挙げよう。今私がこれを書いているのは地上三階にある自室で、すぐそばには窓がある。この窓を開けていると、時々(日に数回くらいか)煙草の臭いが部屋の中まで漂って来るのだ。特別苦痛に感じるほど強烈にではないが、明らかに煙草の煙だとわかるくらいには強い。これは恐らく、隣の家の二階で誰かが煙草を吸っているのだと思われる。そこが一番近いからだ。隣の家の窓までは、距離にしておよそ7mというところだろうか。隣の二階で誰かが煙草を吸うのが日に数回だけということも考えにくいから、これは風向き次第でこちらまで臭ったり臭わなかったりするのだろうが、それでも隣の家の誰かは、まさかここまで臭って来ているとは思っていないだろう。喫煙者は煙草を吸う時、「自分は今から七輪でクサヤの干物を焼こうとしているんだ」と思っていただいてもいいかもしれない。
 更に臭いの話は続く。今度は「残り香」についてだ。残り香などというと何やら色っぽいイメージがあるが、こと煙草に関してはそんなイイものではない。
 例えば私が誰かと喫茶店で1時間か2時間くらい差し向かいで話をしていたとする。その間相手は5〜6本の煙草を吸ったとしよう。私は家に帰ると、自分の体中が煙草臭いことに気付くのだ。感覚としては焼き肉屋で食事をして帰った時に気付く油臭さに近いが、煙草の臭いはそれよりもずっと強い。臭いは主に服と髪の毛に付いていて、これは断じて洗うまで取れない。洗わなければ何日でも残っている。ここでも喫煙者は「まさか」と思うかもしれないが、「煙草の臭いをよく取るシャンプー」や「煙草の臭いがつきにくくなるヘアスプレー」などがちゃんと販売されている事実を思い出して欲しい。私の場合は、自分が煙草臭くてなかなか寝つけないこともあるくらいなのだ。

 さて、もちろん煙草の煙は「臭い」だけでは済まない。遠くからかすかに漂って来るだけなら臭いしか感じないのだが、近くでモクモクやられると、実際に色々と不快な症状が出て来る。
 最も顕著なのは「息苦しい」という感覚だ。これは煙にむせるのとは少し違う。むせることもあるにはあるのだが、その前にそれとは違う息苦しさが襲って来るのである。これは文字通り「酸素が足りない」という感覚に近いと思う。実際には煙草の煙がたちこめたからと言ってそれほど酸素不足になるとは思えないのだが、私にはそう感じられるのだ。こんな息苦しさは健康な人間が普段体験するものではないのでちょっと説明しようがないが、強いて言うならば、室内に自動車が乗り込んで来て排気ガスを出しまくったらこんな状態になるのかもしれない。あるいは、ごく狭い部屋を長時間締め切ってそこに閉じ籠っていたら、これくらい息苦しくなるだろうか。一部の嫌煙者はそばで煙草を吸われる度に『Uボート』を体験しているのだということを、どうかわかっていただきたい。
 もう一つの症状は、「ムカムカ感」である。もちろん怒っているのではない。軽い吐き気を感じているのだ。私の場合これは息苦しさよりもずっと弱く、多くの場合ムカムカまで行かずに「食欲がグッと落ちる」程度で澄む。それでも食事の場では大迷惑であることはわかっていただけるだろう。しかし人によってはこちらをより強く感じる場合もあるらしく、ある私の知人は新幹線で禁煙席の切符が取れずやむなく喫煙席について名古屋から東京まで来たところ、駅に着いた直後トイレに駆け込んで嘔吐したそうである。新幹線の喫煙席というのは現在ではヘビースモーカーばかりが座る席になっている感があるので、これはちょっと特殊な事例だとは思うが。
 それでは、こういった「臭いだけでない」症状が出て来るのは、どれくらい近くで煙草を吸われた場合なのだろうか。当然これも一概には言えないが、私の感覚だと、喫茶店でテーブルを一つ置いた向う側の席くらい、距離にして2m〜3mくらいだと、まず確実に苦痛を感じると思う。それよりずっと遠ければ、空気がこちらに向かって流れて来ない限りは臭いしか感じない場合が多いだろう。ただ、強く換気している場合を除いて、室内の空気の流れというのは意外にしょっちゅう変化しているものなので、喫茶店などで4m〜5mくらい離れたところで誰かが煙草を吸っていると、ちょっと苦痛に感じたりまた気にならなくなったりということを繰り返すことになる場合が多い。こちらの気分としては「なんだかイラつくなあ〜」というところである。その程度のことで文句を言うのも明らかに変なので、却って余計に歯がゆい気分になったりするのだ。もっとも、そこで複数の人が同時に煙草を吸い始めたりしたら、こちらとしてはもう「イラつく」どころの騒ぎではなくなってしまって、そのままレジで会計するのももどかしく外へ逃げ出すしかないこともある。
 喫煙者の中には、煙草の煙は見えなくなってしまえばそれは消えてしまったということで、後に残っているのは臭いだけ、などと思っている人も多いようだが、それは大間違いである。見えなくなったということは単に薄まったというだけのことで、煙は煙としてそこに充満しているのである。とくに室内ではよく換気しない限りいつまでも残っているので、この認識の違いは非常に大きい。煙草の煙の迷惑は臭いだけではなく、ましてや煙だけでは決してないということを、喫煙者の方々にはよく認識していただきたい。

 さて、今度は喫煙者への攻撃である。単純に、嫌煙者(あるいはその一部)が煙草に関してどんな風にどれだけ苦痛を感じているのかを知らないために迷惑な喫煙をしてしまっているという問題については、これまでに述べて来たことを参考に配慮していただければほぼOKではないかと思う。以下は、それ以外の問題に関することだ。もちろん喫煙者も人それぞれだから、一部の人にしかあてはまらないことだとは思うが、巷にはこういう輩が実に多くいることもまた確かなのだ。

 まず私が一番問題だと思うのは、吸い殻のポイ捨てである。ポイ捨て自体が迷惑で問題だということはもちろんあるが、それ以上に問題なのは、ポイ捨てを悪いことだと思っていない喫煙者が異様に多いことである。「まさか」と思われるだろうか。では、こう言い直そう。道端に紙屑を捨てるよりも吸い殻を捨てる方が罪が軽いと思っている喫煙者が実に多いのである。実のところこれは「思っている」というよりも「感じている」という方が近いのかもしれない。例えば、煙草を一箱吸いおわって、空き箱をクシャッと丸める。これをそのまま道端にポイしてしまう馬鹿者もいるが、多くの人はそうしない。ちゃんとゴミ箱を探して捨てる。…が、そういう人でも吸い殻は平気で道端に落として踏みつけるのである。自分でやっていておかしいと思わないのだろうか?客観的に考えて、道端に紙屑を捨てるのと吸い殻を捨てるのとで、どっちがより迷惑で、どっちがより悪いことだろうか?もちろん一概に言えることではないが、「明らかに紙屑の方が悪い」という結論にはどう考えても達しないだろう。下を向いて道を歩いてみていただきたい。道端に落ちているゴミのうち、どれだけを吸い殻が占めていることか。私の感覚では、少なく見積もっても7割は行っていると思う。それほどに、吸い殻「だけ」が平気で捨てられるのだ。これはもう、何かが狂っているとしか言いようがない。
 私は子供の頃、TVアニメの『サザエさん』で、誰か(多分マスオさんの同僚あたり)が吸っていた煙草をポイ捨てするシーンを見て驚いたことがある。作中では、これが単に自然な動作の一つとして描かれていたのだ。「サザエさん、お前もか」である。
 昔は道の表面が土で、煙草もフィルターが付いていなかったので、吸い殻をそのまま捨ててもある程度大丈夫だったとか、吸い殻は再発火の可能性があるのでそのままゴミ箱に捨てられないとか、色々と経緯や理由はあると思う。それでも、それにしても、おかしいと思わないだろうか?道端に捨てた吸い殻は、紙屑や空き缶と違って、誰かが掃除しなくても翌日には自動的に消えてなくなってしまうような気が、どこかでしていないだろうか?もちろんそんなわけはないと、考えるまでもなく解っているのに。
 これに似た話はもう一つある。
 喫煙者に質問。あなたは見ず知らずの人の顔に煙草の煙を吐きかけたりしますか?まあ、大抵の人はそんなことはしないだろう。では、街を歩きながら煙草を吸ったりはしますか?これは、かなり多くの人がやっているんじゃないだろうか。実際、街ではよく見かける。では、街を歩きながら煙草を吸うという行為が、後ろを歩く人の顔に煙を吐きかけているのと同じことだと、本当に気付いていないのだろうか?私にはちょっと信じられない。
 これらのことに限らず、煙草や喫煙に関する多くのことが、一般的な道徳や倫理から切り離されて感覚が狂っているように思える。これが喫煙者対嫌煙論者の議論が大抵の場合「泥仕合」にしかならないことの遠因にもなっているのだと私は思う。

 これは一部のバカ喫煙者に限ったことかもしれないが、どうも喫煙という行為を「カッコイイ」ことだと思っている輩が少なからずいるようだ。小学生や中学生が大人に憧れてカッコつけで煙草を吸ってみたがるというのはありがちなことだし、私にも経験があるので充分理解出来るが、二十歳を過ぎたいい大人が「カッコイイ」つもりで煙草を吸っている図というのは単なるマヌケである。
 それはつまり、映画やTVドラマ、そして煙草のCMなどでカッコイイ俳優がカッコよく煙草を吸っているのを見てそう思ってしまうのだろう。これは大きな勘違いである。カッコイイ俳優が煙草を吸っている図がカッコイイのは、その俳優がカッコイイからなのである。カッコイイ俳優なら、牛乳瓶片手に餡パンをカッコよくかじることだって出来るのだ。それを理解出来ずにポーズをそのまんま真似して悦に入るというのは、スーパーモデルの真似をして頭に花を飾って街を歩いてしまうパッパラ女子高生よりもなお滑稽である。
 そもそも、喫煙というのはどういう行為だか考えてみていただきたい。まず、乾燥させた草に火をつけて煙を出す。これを室内でやるという時点でかなり常軌を逸しているとは思うが、そこをグッとこらえて、次は出て来た煙を吸引する。何のために?自分の快感、あるいは薬物禁断症状の緩和のためである。つまり、喫煙とは自慰行為なのだ。わかりやすく言うと、オナニーね。
 喫煙というオナニーは性器を露出したりしなくても出来るのでこっぴどく恥ずかしい行為ではないが、オナニーはオナニーである。悪いことではないんだから必要以上に我慢することはないが、基本的には恥ずべき行為で、普通は陰に籠ってすることだと私は思う。それを何のてらいもなく人前でおおっぴらにやって、あまつさえカッコイイと悦に入るなんていうのは、私に言わせれば狂気の沙汰である。
 もう一度念を押してしまおう。喫煙とは、オナニーに類する、むしろ性的なオナニーよりもずっと臭くて不潔な行為である。人に迷惑をかけずにする分には決して悪いことではないが、愛好者にはせめて心の隅にでも恥を知って欲しいと私は思う。

1.煙草は、法律で許された嗜好品である。
2.喫煙はオナニーに近い行為である。

 この二つの事実を真摯に受け止めれば、喫煙者も嫌煙者も、何をどう考えるべきかがおのずと解って来るのではないかと思う。
 喫煙者には、吸いたい時に煙草を吸う権利がある。嫌煙者には、煙草による迷惑を受けずに生活する権利がある。この二つの権利は、どちらも最大限に護られるべきものである。これに異論を唱える人は、まあいないだろう。問題は、この二つの権利を同時に、しかも完全に護ることが出来ない場合が多くあるということだ。そこにはどうしても妥協が必要になる。ある時代までは嫌煙者が一方的に我慢を強いられていたが、今は双方が適切な妥協点を探って試行錯誤している時代だ。つまらない結論で恐縮だが、結局のところそこに必要なのは、相互の理解と思いやりだろう。妥協というのは、双方がある程度の我慢をすることである。それには、相手がどの程度我慢しているのかを知り、また自分がどの程度我慢しているのかを伝える必要があるだろう。そうでなくては、適当な妥協点を見つけられるはずがない。
 最後に嫌煙者の一人として喫煙者の方々に言いたいのは、人に迷惑をかけずに喫煙することは、非常に難しいけれども可能だということである。「喫煙イコール悪」と決めつけようとするバカ嫌煙論者たちをのさばらせないためにも、迷惑でない喫煙をどんどん実践していただきたい。煙草を苦痛と感じる人たちに配慮し、お互いにある程度の我慢をしてする喫煙であれば、それはもう迷惑ではないのだから。
 敵を知り己を知れば、百戦危うからず。…って、これはちょっと違うか。
 もちろん、自身や家族の健康への悪影響を考えれば喫煙自体を控えるべきだとは思うが、最初にも言った通り、それは他人がどうこう言えることではない。全ては喫煙者自身の胸一つなのだ。

1999/05/15

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