深夜、私が例によってデスクトップPCに向かってあれこれと作業をしていると、目の前を横切るものがあった。私は猫のように反応してそれを目で追う。間違いない、蚊だ。私は普段どちらかというと「虫も殺せない」方なのだが、自分が直接的に被害を受ける蚊に対しては旺盛な殺意をあらわにする、利己的な人間なのである。
それでも蚊というのは非常にすばしこい昆虫で、しかも非常にトリッキーな飛行方法を生来身につけている。反射神経にも動体視力にも恵まれているとは言い難い私は、見つけたと思っても数秒後には見失ってしまうことの方が多い。その時もそうだった。
しかし、一度「にっくき奴」を目にすると、神経は更に張り詰める。計測すれば、脳内のアドレナリン分泌量も増えているかもしれない。蚊の方にしてもそもそも人家に侵入したのは獲物である人間に食らいつくためなのだし、ほどなくまたその姿は私の目に捉えられることになる。そんなこんなで、半時間ほどの間に発見しては見失うということを何度か繰り返した後に、決定的なチャンスは訪れた。「奴」が、目の前のCRTの横をウロウロと飛び回っているのがはっきりと目に入ったのだ。私愛用のCRTは、「ビジネス・アイボリー」などとメーカーが呼ぶ、要するによくあるくすんだ白色をしていて、それを背景として飛ぶ蚊は非常に見やすい状態にある。しかも「奴」はCRTの通気スリットのあたりをヒョロヒョロと行き来していて、あまり俊敏さを発揮していない様子だ。私は首から下げていたタオルを手に取り、目に殺気をたたえてジリジリと身を乗り出した。私のターゲットは引き続きヒョロヒョロとCRTをつつくような恰好で飛び回った揚げ句、通気スリットのすぐ下にピタリと留まった。私は右手をタオルごとその上へ叩きつけた。さすがに愛用の機材を動作中に素手でバシンと叩く気にはなれなかったのだ。
結果は、見事私の勝利。蚊は無残に潰れた状態をタオルの上にさらすこととなった。私は何やら妙な高揚感と達成感を味わいつつ、ティッシュペーパーに蚊の亡骸を取り、更に念入りに潰した。蚊を潰した時に血液が出て来ないと、被害なしということでその方がいいに決まっているのに、何やら残念な気がしてしまうのは不思議なものだ。
私は勝利の余韻を噛み締めつつ、PCでの作業に戻った。
そこで、ふと思いついた。今の蚊は、CRTを哺乳動物だと思って襲いかかろうとしていたのではないだろうか、と。夏の夜のCRTは人肌様に暖まり、恐らく通気スリットからは何がしかの空気の流れも感じられたのだろう。蚊は、主に体温と呼吸で獲物を見分けると聞く。そんな考えがある程度の説得力を持つくらいに、今の蚊の飛び方は妙だった。もし今の蚊が風車に立ち向かうドンキホーテのようにCRTに襲いかかったのだとすれば、それは滑稽でもあり物悲しくもあり、ある種サイバーパンク的でもある珍事ではなかろうか。
そんなことを考えながら、私は作業を続けた。また半時間ほどが経った頃、突然耳元で蚊の羽音が大きく聞こえた。咄嗟に振り向いた私の目には、何も捉えられなかった。もちろん私の反応速度が新たに出現した蚊の動きに追随出来なかっただけのことなのだとは思うが、その時私は別に根拠もなく、「蚊の亡霊か?」などと思った。そんな考えが浮かぶのは、この時期「夏だから」というのであちこちで怪談だの「怖い話」だのをやたらと聞かされているためであることは明らかなのだが。
それでも、私は続けてこう思わずにはいられなかった。さっきの蚊がCRTを獲物と間違えて襲いかかった揚げ句に殺されたのだとすれば、人間の所業を恨んで化けて出るのも無理はないよなあ、と。
大手スーパーの中にある書店というと、従来は売れ筋の雑誌の他にはいわゆる「ビジネス書」を名乗るワイドショーレベルの本しか置いていないダメダメな「本屋」という印象があるが、近頃ではそれなりに大きな売場面積を占め、キチンとした品揃えをしている店も多い。その日私はそんな書店の一つで、児童書のコーナーをうろついていた。私は個人的に絵本や童話も好きだが、それ以外にも児童書のコーナーには小学生向けのシリーズとして世界的に評価の高い作品が整然と取りそろえられていたりするので、なかなかあなどれないのだ。いわゆる「名作文学」と呼ばれる作品などは、とくに大きくもない書店ではこうしたコーナーにしかなかったりもする。
そして、そうした文学作品シリーズの隣には、大抵の場合「伝記」本が置かれている。私は何となく伝記本の背表紙を眺めながら歩いていた。『キュリー夫人』や『ワシントン』など、お馴染みの名前が並んでいる。こうした伝記本は前述の文学本とは違って本当に子供向けの内容であることが多いため、私としては普段とくに興味を引かれることもないのだが、その時は一番端に置かれた、恐らく最も新しい一冊のタイトルが私の足を止めた。その本の背表紙には、こう書かれていた。
『ジョン・レノン』
この名前が『リンカーン』や『野口英世』と同じ扱いで並んでいることに対する違和感が私を立ち止まらせたわけだが、客観的に考えてみれば、このこと自体はとくに奇異でも何でもない。ジョン・レノンの知名度や歴史におけるインパクトを考えれば、むしろ当然のような気もする。むしろ、私が感じた違和感は、私が子供だった頃には「伝記の世界」に存在しなかった名前が、今気付くと新たに加わっているという事実に対するもののようだった。
なるほど、「歴史に名前が残る人物」は、当然ながら歴史が進むとともに増えて行くわけだ。してみると、逆に考えればリンカーンや野口英世だって、当時の人にとっては伝記上の人物ではなく、普通に政治家や医者だったわけだよなあ、と、これまた当然のことを思い知らされる私なのだった。
そして、ジョン・レノンの次に並ぶのは、きっと私なんかも現在よく知っている名前なんだろうな、とも思った。それは一体誰なのかな。
GW中に足を運んだ千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館では、『縄文文化の扉を開く』と題して三内丸山遺跡からの出土品などを展示する企画展が開催されていた。私はどちらかというと土から掘り出した壷だの茶碗だのを見てもとくにロマンを感じられない方なのだが、この博物館自体が広くて展示も充実しているし、企画展にもそれなりに気合いが入っているようで、結構楽しんで観ることが出来た。
…が、どうも気になる点が一つ。企画展の展示物に添えられたパネルなどによる解説はなかなか充実していて、内容もそれなりに詳しく解りやすいものだったのだが、どうにも違和感のある記述が目につく。
「三内丸山ムラでは…」
「ムラでの人々の生活は…」
いや、別にいいんだけど、どうして漢字で「村」と書かないんだろう。縄文時代に市区町村制度があったと誤解する人はまあいないだろうし、現在の地名との混同を避けるためということだろうか。それにしても、一般名詞の「村」までカタカナにすることはないんじゃないかなあ。
そこまで考えてふと、もしかすると「部落」という言葉を使うことを避けているんじゃないだろうか、などとも思えて来た。千葉県(の少なくとも一部)では今でも「部落」という言葉を元々の意味(単なる地域の一単位)で普通に使っていて、私の祖父はそういう地域の出身である。その祖父の息子である父は、60歳を過ぎてからある旅行先で白い目を向けられるまで、この言葉が差別用語と目されていることを知らなかったそうだ。私は以前あるキッカケで少し調べてみたことがあるので知識として知ってはいるが、内容が内容だけにということなのか、どうもオブラートに包まれたような婉曲な情報しか得られず、今一つピンと来ていない。こういう蒙昧な「臭い物にはフタ」的現状や安易な言葉狩りには個人的に普段から苦々しい思いを抱いているので、何となく嫌〜な気分が頭をもたげるのを感じながらその後の展示の解説を読み進むことになったのだが…。
そのうち、一緒に歩いていた友人が、ある解説文の前でピタリと立ち止まり、ギョッと目を剥いて身を乗り出した。何事かと思って私もその解説文に目をやった。そこにはこんなことが書かれていた。
「その近辺にはいくつものムラムラが点在し…」
私と友人はその場にへたり込んだ。この解説文を書いた人がどういうつもりでいるのかなどということは、なんだかどーでも良くなってしまった。
その日はちょっとした必要があって、書店で看護/介護関係の書籍を物色していた。看護理論や処置の技術に関する本から、医学知識をまとめた専門書、そして看護婦やケアマネージャーといった資格試験の参考書まで、外観も内容も実に様々な本が並んでいて、意外とバラエティに富んだ印象だ。考えてみれば当たり前のことではあるが、なるほどこの状況はコンピュータ書籍のコーナーと似ているな、などと思いながらあれこれと本を手に取っていたら、ある本の意外なタイトルが目に飛び込んで来た。
『ナースのための かんたんExcel』
私は一瞬目が点になったが、すぐに気を取り直してその本のまわりを確認してみると、隣には同じシリーズのWord版が、反対隣には『ドクターとナースのための実践データ整理術』なる本が並んでいた。
うーむ、と唸りながら、私は最初に目に入ったExcel本(らしきモノ)を手に取ってみた。出版社はコンピュータ書籍で馴染みのあるところではなく、どうやら医療関係書籍の系統らしい。中身をパラパラと眺めてみると、タイトルから予想された「オールカラーで画面写真満載」な感じでは全然なく、むしろ地味な印象だ。目次を確認しつつ内容を拾い読みしてみると、…うぬぬ、これは侮れない。Windowsの基本操作や表計算ソフトの目的といったところから始まって、Excelの基本的な使い方を一通り網羅し、最終的にはデータ処理や報告書作成のノウハウという話にまでなっている。かなり実践的で内容の濃い本のようだ。
しかし、よくよく考えてみれば、これは当たり前のことなのかもしれない。なにしろ「ナースのための」Excel本なのだから、とりあえずExcelを操作出来るというだけではダメで、実際にナースの仕事に役立てるところまで持って行かなくてはならないということになる。「とりあえず出来たような気になる」ことを目的とした、似たようなタイトルのコンピュータ系の入門書とは違って、こちらは最初から志が高いわけだ。当然内容も濃くなるし、「カラー写真満載」などと浮かれている余裕もないわけだろう。
非常に納得&感心した私は、これはもしかすると他の専門コーナーにも、それぞれ『弁護士のための実戦的データベース構築法』とか『航海士のためのモバイルPC活用術』とかいう本が並んでいるんじゃないかと興味をそそられたが、なんだかそれはそれで怖い気がして、実際に確認に行くことはせず、当初の目的である看護/介護関係書籍の物色に戻った。
…頑張れ、コンピュータ系出版社。
秋葉原の「LaOX Theコンピュータ館」はいわゆる「大手パソコンショップ」のハシリであり典型でもあるのだが、その一方でなかなか柔軟な経営方針を実践しているらしく、近頃ではパーツ類も一通り扱っている。殺風景な狭い店内に無造作に置かれているイメージが強いPCパーツの類いが、ここではキレイなショーケースに収まって陳列されている。だからといって値段がバカ高いというわけでもなく、モノや時期によっては安売り店よりも安かったりするから侮れない。そして、大手ショップの仕入れ経路故か、一般のパーツショップとは一味違った品揃えになっている点も見逃せない。
その日私は、他のショップではなかなか見かけられないマイナーな国産ビデオカードのスペックを確かめようと、しゃがみ込んでショーケースに顔をくっつけていた。あまりスマートな恰好ではないが、この際仕方がない。その場で買うつもりもないのに、毎日ワケワカな初心者客への対応で苦り切っている店員を呼んで情報を引き出そうとするほどの気力は、私にはないのだ。
そんな私の隣で、あるオジサンが女性店員を呼んで、そこにあったビデオカードを買う旨を告げた。その時、しゃがみ込んでいる私は斜め上方から聞こえて来る声に、ちょっと目を剥いてしまった。オジサンの注文を受けた女性店員が、立派な営業スマイルも華やかに、こう言ったのだ。
「こちらをお使いのマシンは、ご自作ですか?」
…「ご自作」。初めて聞く言葉だ。…いや、もちろん言葉自体が奇異なわけではないし、ビデオカードを単体で買うからにはほとんどの場合マシンは自作なのだろうから、当然の問いでもある。私は「ご自作」という言い方への違和感と、そんな違和感を大きく感じる自分への違和感を同時に感じて戸惑った。店員は続けた。
「そうなりますと、動作保証はありません。初期不良交換は一週間です。」
そりゃそうだ。自作マシンに装着した場合の動作を保証出来るわけがない。しかし、初期不良は無償交換するわけだから、カード自体の動作は保証されているわけで…、うーむ、言葉って難しいなあ。「なんでもかんでもとにかく自己責任」が暗黙の了解となっている一般のパーツショップではまず聞かれない会話なのでちょっと驚いたけれど、LaOXとしてはまあ、これが当然の対応になるのだろう。
もともとPCは家電に比べて自己責任のリスクが異様に大きい商品なのに、近頃は更にリスクの高い「ご自作」を、初心者までがするようになって来ている。それはそれで面白いことではあると思うが…、まあとりあえず、LaOXの販売員は大変なんだろうな。