私は、強度の近視である。小学生の頃から眼鏡をかけて生活しているので、これについてはもう慣れてしまっているが、漠然と「コンタクトにしてみようかな」と思ったりすることはある。具体的にはっきりと不便なのは、風呂に入る時だ。目の前にあるポンプの中身がシャンプーなのかリンスなのか、手に取って顔の前に持って来ないと確認できない。加えて最近は体を洗う石鹸もボディーソープなんてものになり、これまたシャンプーやリンスと同じデザインのポンプに入っている。紛らわしいこと甚だしい。
そんな状態なので、私は共同浴場が苦手だ。勝手のわからない大きな風呂場の中を眼鏡のないぼんやりとした視界で歩くのは、危険とは言わないまでも、気の疲れることだ。周りの他人に迷惑をかけることがあっては困るという気後れもある。それでも成り行きによってその手のところへ行くことはあるわけで、そういう時はしかたなく眼鏡をかけたまま入浴したりする。これがまた、曇ってしまったり水滴だらけになったりで色々と不便なのだが、それでも裸眼でいるより危険が少ないことは確かなので、最近はそうすることが多い。ただ、それでも眼鏡を外さなくてはならない場面がやはりある。顔や頭を洗う時だ。
先日、ある温泉の大浴場で、私は頭を洗おうとしていた。目の前には、全く同じデザインのポンプが三本並んでいる。私はとりあえず一番左にある一本を取って鼻先まで持って来て、ラベルを読んだ。シャンプーだった。確率三分の一で目的のポンプを引き当てたことに多少気を良くして、私はそのポンプの内容物たるシャンプーを使って頭を洗った。あまり高級なシャンプーではないらしく、すすぐ時に髪がきしむような感触があった。さて次はリンスだなと、私は、真ん中のポンプを手に取った。それはボディーソープだった。やれやれ今度はハズレだったかと、最後の一本を手に取ってラベルを読んだ。そこにはこう書かれていた。
リンス in シャンプー
私は数秒間固まっていたと思う。そして思わず「おいっ!」と突っ込みの声をあげたのだが、それはどこへ向かっての突っ込みだかはっきりしなかった。
私はもう一度シャワーを出し、髪と地肌を念入りにすすいでから、その場を去って湯船に向かった。何やら、巧妙に仕組まれた罠にかかったような気がした。
私の友人に、電車などに一人で乗っている時に読むべき活字がない状態になると、軽いパニックに陥ってしまうという人がいる。家を出る時に文庫本を持つのを忘れたり、次に読むものを用意していないのに手持ちの本を全て読み終わったりしてしまった時には、慌てて最寄りの売店に駆け込んで、大して読みたくもない本を買ってしまうのだそうだ。それによって意外な傑作に出会うこともたまにはあるようだが、大抵はロクでもない代物を掴んでしまって大後悔するのだとか。
そこまで極端な人はそういないと思うが、電車の中で何かしらを読んでいる人は、やはり多い。私にしても、ある程度長く電車に乗る時は、何か読んでいたいと思う方だ。そしてまた、周りにいる人が読んでいるのが何なのか、ちょっと気になってしまうこともよくあったりする。
ある日私は、自宅に向かう最終電車で『UNIX MAGAZINE』を読んでいた。私は普段雑誌を持ち歩くことはほとんどないのだが、その日はたまたま外出先で書店に立ち寄る時間があったので、ついでに買って帰ることにしたのだ。平日とは言え最終電車の中は酔っぱらいが多く、車内に充満するイヤな匂いを無視するためにも、私は雑誌の記事に意識を集中していた。やがて自宅の最寄り駅が近づいて来たので、私は雑誌を閉じて書店の袋に戻した。そうしてふと隣を見ると、いつ乗ってきたのか気付かなかった、サラリーマン風の若い男性が、やはり雑誌を読んでいた。雑誌のタイトルは『Software Design』だった。私はちょっとのけぞりそうになるくらいにドッキリしてしまった。とくに考えるまでもなく、別段驚くべき状況でないことは確かなのだが、『週刊アスキー』でも『日経クリック』でもなく、また『TECH B-ing』でもなく『Software Design』を読んでいる人が私のすぐ隣に、しかも酔っぱらいだらけの最終電車という状況で突如出現した(わけではないんだろうけど)という事実は、私にとっては結構なインパクトがあった。仮に、隣の人物がノートPCをいじっていたとしても、これほどのインパクトは感じなかったと思われる。私にとっては、電車の中でノートPCをいじっている人よりも、『Software Design』を読んでいる人の方が気になるらしい。我ながら、これはちょっと面白いことかもしれないな、と感じた。
そう言えば、以前友人と二人であるセミナーに出かけた時、地下鉄の中でさかんに涙を拭いている女性を見かけたことがある。一体何事かと思ってよく見ると、その人物の手には『大河の一滴』の文庫本があった。私は友人の肘をつついたが、友人もすでに気付いていたようで、私の方を見て肩をすくめた。私は眉を寄せ、首をひねって見せた。
そのセミナーの帰り途、同じ路線の逆方面の電車に乗っていると、ある駅で丸々と太った年配の女性がドスドスと乗って来た。その人物は私と友人の向かいの席にドッカリと腰を下ろすと、大振りのバッグから本を取り出して開き、読み始めた。その本の表紙にはデカデカと喪黒福造の顔が踊っていた。私と友人は顔を見合わせて、当惑を伝え合った。その後、私たちは乗り換え駅でその電車を降り、トイレに立ち寄ってから、別の路線のホームに向かった。「いやあ、大判の『笑うせえるすまん』を出して読んでるオバサンの図ってのは、インパクトあったなあ」などと話しながら階段を降りてホームに出ると、目の前に問題の「オバサン」が、まだ同じ本を手にして立っていた。私たちは二人とも絶句して棒立ちになり、やがてそそくさとその場から逃げ出した。
また別のある日、今度はJRの電車の中で、座っている私の目の前に立ったのは、地味な服装の若い女性だった。手には、食料品の入ったコンビニ袋をさげている。そしてその人物が読んでいたのは、小学館てんとう虫コミックスの『ドラえもん』だった。私は妙に感動してしまった。大人になって、電車の中で立ってまで『ドラえもん』を読む人がいようとは。しかも、王道たるてんとう虫コミックスで。この作品の価値というものを、きちんと感じ取れる人が結構いるものなんだな、と。私にとって『ドラえもん』は思い出と思い入れのこもった作品であり、心の師たる藤子F不二雄氏の代表作でもあるという、大切なものなのだ。それに意外なところで出会ったということが感動を生んだわけだが、よく考えれば実に手前勝手な話ではある。ましてや、五木寛之氏や藤子不二雄A氏のファンには怒られてしまいそうだ。
まあ結局、電車の中で何を読んでどう感動しようがその人の勝手なのであって、他人がそれを覗き込んだり気にしたりするのは大いに野暮だということなのだろう。