金曜日の夕方、会社のビルから出るなり鈴木はコートのえりを立てて、
「寒い・・・」
と言った。鈴木は、その言葉を久しぶりに口にした様な気がした。
「そうさ・・・おれよりもずっと寒い思いをしている人が、まわりにも沢山いるんだから・・・。」
その突然変異が一般に浸透したのは、ほんの二年ほど前の事だった。もっとも、その兆候はだいぶ以前からあったのかもしれないが。
人々は、その心の中の<寒さ>を、冷気として体外に発散するようになったのである。冷気を発散していると、心の<寒さ>は幾分やわらぐのだった。
「寒いな・・・。」
ともう一度言って、鈴木はおでん屋の赤ちょうちんに足を向けた。鈴木がその店のなじみになってから、もう五年近くになる。心が寒くても体が寒くても結局同じ所へ足を向けている自分に気が付き、鈴木は苦笑した。
鈴木が二級酒をチビリチビリやっていると、となりに大きな封筒をかかえた男がどっかと座った。なにげなく見たその横顔に、鈴木は見覚えがあった。
「山田、山田じゃないか?」
鈴木が声をかけると、鈴木の大学時代の親友山田は振り返り、嬉しそうな声を出した。
「鈴木かぁ!ごぶさたじゃねぇか!」
「まったくだな。」
「おやおやすっかりサラリーマンらしくなっちゃって。親友と会う暇もないってか?」
「そういうお前はどうしてるんだ?」
山田は大学時代から変わり者で、鈴木と同じ文学部に籍をおきながらイラストレーターを目指していた男である。そんな山田には友人が少なかったが、なぜか鈴木とは気が合い、山田のアパートでよく二人で飲み明かしたものだった。
「おれにもやっと運が回って来たぜ。」
山田は興奮を隠しきれない様子でそう言った。
「今日行った出版社で、おれのイラストが評判良かったんだ。正式に採用になったら、明日通知が来る事になってる。」
持って来た封筒をペシペシとたたきながらそう言う山田の顔には、かげりのかけらもなかった。鈴木が、
「なるほど、それでお前から冷気を感じない訳が分かったよ。燃えてるって訳だな。」
と言うと、山田は目をまるくして、
「なんだ?それ」
とたずねた。
本当に驚いたのは鈴木の方だった。この<寒さ>を経験していない者がいるなんて。しかも、それを知らないときている。
鈴木がそれを説明するのに10分ほどかかった。
「へぇーっ、そりゃあ気がつかなかった。おれっておかしいのかな。そんな<寒さ>なんか全然感じた事ないぜ。今なんか、あついぐらいだ。」
そういう山田の顔は赤く、もうだいぶ酒がまわっている様だった。
「明日、おれのうちへ来てくれよ。昔みたいに一緒に飲もうぜ。採用通知が来たら祝杯、来なかったら残念会だ。」
山田はご機嫌で鈴木を誘った。
「お前、まだあのアパートにいるのか?」
「ああ、今んとこカネが無いからな。」
鈴木はなぜか、うらやましい、と思った。
次の日、鈴木が山田のアパートを訪れると・・いや、正確には訪れられなかったのだ。山田のアパートは燃えていた。
たき火にあたっている様なヤジウマに紛れて鈴木は、
「採用通知が届いたんだな。」
と思った。
背筋が凍る思いがした。