ショートショート作品 No.034

『出会い』

 街は灰色の活気に包まれていた。
 高層ビルの林立するこの街を行き交う人々はみな無表情を装い、目にとまる物など何もないといった風だ。それぞれが単なるエキストラを演じている。擦れ違う人は障害物でしかなく、隣り合う人との距離は無限に大きい。

 その街の片隅に、舞い降りたものがあった。

 宏は分厚い書類用の封筒を抱え、傷んだ靴を気にしながら歩いていた。
 そろそろ新しい靴を買わなくては。しかし、仕事用の靴なんか選ぶのも面倒臭い。靴屋に入って今はいてるのと同じのをくれといったら変だろうか。
 そんなことを考えながら、特に意識する必要もなく、宏の身体は自動的に取引先の会社への通い慣れた道を辿っていた。

 芳美は太いストローを指でピンと弾いた。いつものように銀行へ遣いに出された帰り途、いつもの喫茶店で恒例の1杯のアイスティーを飲み終えると、芳美はいつでもそうするのだった。
 ふっ、と、ため息とも深呼吸ともつかない息をひとつして、芳美は座り心地のいいソファー式の椅子から立ち上がった。特に意識する必要もなく、左手は隣の椅子からハンドバッグを取り上げていた。

「ありがとうございました。」
 店員の声とほぼ同時に、喫茶店のドアは自動で開いた。
 ドキリ。
 出会いがしらに、宏と芳美の歩調が乱れた。
 二人の目は一瞬お互いに釘付けになった。

 おそらくは一生忘れられないだろうと思えるほど長い一瞬の後、宏はハッと我に返り、慌てて目をそらした。頬と耳が紅潮するのを感じた。詫びの言葉どころか、声さえも出てこなかった。
 何度かの大きなまばたきの後、芳美も目をそらすことに成功した。足は当然のように歩き出した。
 宏の足も動きだし、二人は擦れ違った。
 宏の頭の中から、靴のことはどこかへ飛び去ってしまっていた。意識は背後に総動員されていた。脳は背後のことだけを考え、感覚器官は背後だけを探っていた。
 芳美の手は胸に置かれていた。文字通り胸が高鳴るのを感じた。心臓の鼓動とは全く違うもののように思えた。しかし、芳美に出来ることは人形のようにギクシャクと歩くことだけだった。その目は何も見ていなかった。
 宏は自分でも気づかないうちに拳をにぎりしめていたが、その身体は自動的に動き、立ち止まることはおろか顔を振り向けることすら許さなかった。
 二人の距離はひらいていった。

 傍らの路地から影が飛び出した。
 影は真っ直ぐに走り、芳美をはね飛ばした。思わず短い悲鳴があがる。
 芳美をはね飛ばしたものは一瞬立ち止まった。影のように見えたのは、季節外れの真っ黒なコートだった。コートの裾を翻らせて再び走り出したその男の手には、芳美のハンドバッグが握られていた。
「ひったくりだ!!」
 通りがかりの誰かが叫んだ。
 宏は咄嗟に振り向いてはみたものの、状況を把握することすらままならなかった。なにやらいやに黒っぽい人影が後ろを気にしながら走って来るのをやっと理解出来た時には、既に視界に星が散っていた。
 コートの男と宏はもつれ合うようにして倒れた。宏が痛みに顔をしかめている間にコートの男は素早く立ち上がり、投げ出されたハンドバッグと背後をチラリと見比べ、そのまま走り去った。

 宏が腰をさすりながら、書類封筒とハンドバッグを手にして立ち上がると、目の前に芳美の顔があった。宏は一瞬息が詰まった。
「あ、あの、これ。・・・あなたのですよね。」
 芳美は差し出されたハンドバッグを急いで受けとり、気遣わしげな視線を宏に投げかけた。
「ありがとうございます。・・・あの、大丈夫ですか?」
「え、はい。なんとか。」
 宏は未だに戸惑いを隠しきれない様子だったが、顔が自然に微笑を形作った。それを見て芳美も微笑む。
「よかった。」

 ひったくり犯の男は物陰で荒い息を整えていた。額には汗が光っていた。
「ハー、ハー、・・・まったく!」
 男は顔を隠していたマスクやサングラス、そして帽子をいまいましげに投げ捨てた。
「近頃の若い奴ってのは、なんて世話が焼けるんだ! 昔は愛の矢を射込んじまえばそれでめでたしだったのに。いいかげんにして欲しいよまったく!!」
 そう言って男は黒いコートを脱ぎ捨て、純白の羽根をはばたいて舞い上がった。

 飛び去るものの姿に気づいた者はいなかった。
 今、この街で空を見上げようと思うような人間がいるとすれば二人だけだったし、その二人にはお互いの顔しか見えていなかったのだから。


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