どうもきっと、これが文学というものなんだろうな。
…といういささかバチあたりな感想がまず出て来てしまうバチあたりな私は、実を言うとおよそ文学作品というものをほとんど読んだことがないのだ。いや、この場合は純文学と言うべきなのかな。それすらもよくわからない。
こんなところで恥をさらしてどーするんだとも思うが、まあ今後のこともあるし、早目に白状しておいた方がいいだろうと思ったようなわけなのでございます。(急に弱気)
とにもかくにも、本作が、私が初めてマトモに読んだ夏目漱石作品ということになる。『坊ちゃん』と『吾輩は猫である』と『こころ』くらいはTVや何かでドラマを観たりしておおよそのところは知っているが、なにしろちゃんと読んだことはないのである。
それがまた一体どういう風の吹き回しかと言うと、新潮文庫「明治の文豪」なるCD-ROMを買ったからなのだ。これはタイトル通り明治時代の文豪の作品が文庫本40冊分収録された、いわゆるマルチメディア・コンテンツのひとつである。文章を画面上にしっかりと縦書きで表示して読ませてくれるビュワーソフトと、通常のフォントセットには入っていない文字まで網羅した太明朝のTrueTypeフォントが用意され、いくつかの作品には全文を朗読した音声ファイルまで付いている。
しかし、私はそれらの有り難い「まるちめでぃあ」な品々を利用せず、オマケとして付属しているテキストファイルをHP200LX*に入れて読んでしまう。もともとそれが目的で買ったものなのだ。200LXに本の内容を入れておくことが出来れば、出先で読むために文庫本を持ち歩く必要がなくなって、その分荷物も軽くなって万々歳だと考えたわけである。本当は同じシリーズの「新潮文庫の100冊」というCD-ROMを買おうと思ったのだが、収録作品が少ないためか著作権が切れているためか、この「明治の文豪」の方がかなり安かったので、セコイ私はこちらを買うことにした。元々こうした作品に興味がなかったわけではないので、まあいい機会だとも思った。
その後、最近になってふと見ると、同じシリーズに今度は「大正の文豪」というのが増えていた。してみると、「明治の文豪」の売れ行きが良かったのかもしれない。思わずこれにも手が伸びそうになるが、「明治の文豪」をまだ数作しか読んでいないという事実を自分に突きつけて、何とかその場は思いとどまった。このことがまた、200KBあまりのテキストファイルとして200LXのフラッシュカードに居座っていた『門』を読み始めるキッカケにもなったのだった。
なんだか前置きが長くなってしまったが、とにかく読み終えての率直な感想は、「さすが、文豪と言われる作家の文学作品は大したものだ」という、側で聞いていたら馬鹿にしているのかと思われるようなものだった。もちろん、私としては馬鹿にするつもりなんか毛頭ない。描き出される人物像には深みが感じられ、その行動や描写には一つ一つ説得力がある。大して面白いわけでもないのにグイグイと引き込まれ、読まされてしまう感覚。些末な部分を除いて古さが感じられることはほとんどなく、役所で筆を使っているという記述に逆に違和感を覚えたほどだ。実にもって、大したものなのだ。
…でも、これがやはり、大して面白くはないのである。別に泣けるとか笑えるとかいうことを期待しているわけではなくて、何かもっとこう心を揺さぶられるようなものを「文学作品」には期待してしまっていたのだが、どうもこれは私の認識不足だったようだ。確かに主人公の腑甲斐なさが強調される部分では自分になぞらえて痛いものを感じたりもしたが、どちらかというとこの作品は、後々まで静かに胸に残って、ふとした拍子に思い出されるような、そういう傾向のものらしい。もちろん、私の理解力不足、感受性不足でなければ、だけれども。
それでも、そこいらの小説からおいそれと感じられるものではない感覚を得られたような気はするし、こんな風に感じられるこんな作品があるということを改めて認識できたというだけでも読んだ甲斐があり、また興味深いことでもあったと思う。何より、次に「文学作品」を読む時の腰の退け方が多少なりとも小さくなるだろうとは思うのだ。
こんな感想では文豪・夏目漱石先生には失礼かと思うが、これが正直なところなので仕方がない。いずれまた違った気持ちで読み返す機会があるかもしれないし、今日のところはこれでお許しいただこう。