【雑文】

『愛煙家の悲劇』

 先日『煙草嫌いの憂鬱』と題して私が日頃煙草に関して思っていることを書いたが、その後また少し思うところがあった。
 ある時、友人知人数人とランチタイムにビルの地下にあるとんかつレストランで食事をしたのだが、そこは全席完全に禁煙で、喫煙者は店の外に設置されている灰皿のところまで行って煙草を吸わなくてはならなかったのだ。愛煙家である知人の一人は仕方なく談笑を中断してそこまで出向き、煙草を吸って来た。そして憤慨して言うのである。
「最近、やたら喫煙が迫害されるようになったなあ」
 彼の主張はこうだ。煙草も法律で許された嗜好品である以上、こんなにも迫害されるのはおかしい。他人に迷惑がかかるからという理由であるなら、酒など他の嗜好品も規制されるべきだ。煙草で直接人が死ぬことはないが、酒では人が死ぬことがあるし、酒に酔っての殺人や犯罪などもあることを考えると、酒の方がずっと危険である。それなのに煙草だけが妙に迫害されているように思えて仕方がない。これは絶対におかしい。
 なるほど、一理ある。この時この意見に対して私が言ったのは、昔はやたらと喫煙者に甘い価値観がまかり通っていて嫌煙者の権利が踏みにじられていたため、ようやく嫌煙者の権利が公にも認められるようになると今度はその反動で積もり積もっていた恨みが爆発し、喫煙者に対する迫害の動きが大きくなっているのではないか、というようなことだった。
 だが、後になってよく考えてみると、これは喫煙者迫害の理由のごく一部に過ぎないように思えて来た。ここには、もっと単純で自然な理由が潜んでいるように思えるのだ。

 上で喫煙者への迫害を嘆いている人物の主張では、煙草による迷惑よりも酒による迷惑や危険の方が大きいということになっているが、これは非常に偏った見方による結論だ。確かに、飲酒によって一時的に精神に異常をきたして他人に多大な迷惑をかけたり、場合によっては傷害や殺人を起こしたりする輩がいることは事実だし、喫煙ではそんなことはまず起きない。しかし、迷惑や危険の大きさというのは、いざ事件が起きた時の被害の大きさだけで判断出来るものではないだろう。この場合で言えば、飲酒や喫煙によって他人に迷惑がかかる率も問題にされるべきなのだ。平たく言ってしまえば、他人に全く迷惑をかけずに飲酒する人は非常に沢山いるのに対し、他人に全く迷惑をかけずに喫煙する人は非常に少ないということが問題なのである。
 それでは、どうして喫煙はそんなに迷惑率が高いのだろうか。理由は二つある。

1.喫煙という行為はもともと他人に迷惑をかけずにすることが難しい
2.喫煙者の意識が低い

 1の理由は、もともとそうなんだから、これはもう喫煙者が気をつけるより仕方がないのだ。もちろん嫌煙者の側も社交的な配慮として多少の我慢は必要だろうが、基本的には喫煙者が気をつけるのが当然だろう。しかし、そのはずなのに、「2.喫煙者の意識が低い」のである。もちろん全員がそうだとは言わないが、私に言わせれば、意識の低い喫煙者が異様に多いのである。

 ここで、「酒飲み一般」と「喫煙者一般」を比べてみようと思う。「酒飲み」というのは非常に曖昧な表現なので、ここでは一応「酒を飲むことが好きな人」と定義しておく。
 さて、酒飲みが公共の場で酒を飲んで他人に迷惑をかける率は、どれくらいだろうか。もちろん、どの程度の迷惑から迷惑と認めるのかとかいうことを定量的に判断することは出来ないので、ごく大雑把な話にはなるが、とりあえず、大きな声を出して周りの人にうるさいと感じられたり、つまらない話をくどくどと繰り返して一緒にいる人をウンザリさせたりする程度から「迷惑」と認めることにしよう。私の感覚では、多めに見積もってもこれは3割程度ではないかと思う。夜の居酒屋などではもう少し率が上がるだろうが、飲酒はもっと色々な場所、場面で行われるし、飲酒によってよく他人に迷惑をかける人でも、いつもそうとは限らない。一般的な見解として、普通は酒を飲んでも他人に迷惑をかけたりはしないものだろう。ということは少なくとも、酒を飲んでも他人に迷惑をかけない場合の方が多数を占めていると見ていいのではないかと思う。
 次に、喫煙者が公共の場で煙草を吸って他人に迷惑をかける率。これはもう物理的に、そばに嫌煙者がいればほぼ100パーセントである。嫌煙者に迷惑をかけないよう配慮して、嫌煙者の方もそれを理解して多少の我慢をするという場合であれば実質的には迷惑とは言えないので、これを除外するとしても、実際問題としてこうした配慮をする人は非常に少なく、どう多く見積もっても1割だろう。ということは、喫煙という行為はそばに嫌煙者がいる場合は9割が迷惑ということになる。では、公共の場で、煙草の迷惑が及ぶ範囲内にたまたま嫌煙者がいない場合はどれくらいあるだろうか。これこそちょっと見当がつかないが、思い切って多く見積もって4割としよう。つまり、公共の場で煙草を吸えば、思い切って少なく見積もっても5割は迷惑なのである。はっきりと過半数だ。この違いは大きい。
 さらに、喫煙者を迫害する側の嫌煙者にしてみれば、「たまたまそばに嫌煙者がいない場合の喫煙」などというのは自分には全く関係のないものなのだ。なぜなら、自分が嫌煙者である以上、そばで煙草を吸われたらそれは必ず「嫌煙者がそばにいる場合の喫煙」になってしまうからだ。そして、その場合の迷惑を避けようという配慮を日常的にする喫煙者は、上記のように1割もいないのである。
 つまり、嫌煙者にとっては喫煙者の9割が敵なのであって、そうなると「全部まとめて迫害しちゃってもいいじゃん」という気にもなる、というのが「喫煙者迫害」を勢いづける一番の理由だと私は見ている。もちろん「だからそれでいい」ということではなく、マナーの良い喫煙者を尊重して増やしていく努力をするのが本当なのだとは思うが、群集心理というのはなかなかそういう理性的な方向には働かないもののようだ。

 さて、ここに至って一つの事実に思い至る。つまり、現状で最も損な目に遭っているのは、一部のマナーの良い喫煙者だということである。嫌煙者への配慮から日常的にある程度喫煙を我慢しなければならず、一方ではマナーの悪い喫煙者と同じ扱いで迫害も受けているのだ。冒頭で紹介した喫煙者の憤慨も、結局はここから来ているのではないかと私は思う。
 というわけで、私はマナーの良い喫煙者の皆さんに訴えたい。あなたがたが迫害される原因を作っているのは嫌煙者のヒステリーばかりではなく、むしろマナーの悪い喫煙者が異様に多いという事実なのだ。つまり、あなたがたは、マナーの悪い喫煙者たちによって多大な迷惑を被っているのである。そこのところをしっかりと認識して、ともにマナーの悪い喫煙行為の撲滅を目指そうではありませんか。そうしなければ、我々にも、あなたがたにも、安息の日々は訪れないのだー。だーだーだー(←エコー)

1999/07/27

to TopPage E-Mail