その異変は、彼がのんびりと夕食後の一服をふかしている時に起こった。
「あーもう、煙いったらありゃしない。いいかげんにタバコやめたらどうなの?」
彼は目を丸くしてあたりを見回したが、声の主は見当たらなかった。
「だ、だれだ?どこにいる?」
「バカねェ、その辺をいくらキョロキョロ見回したって、誰もいやしないわよ。」
どうやらその声は、かれの体の中から聞こえて来るようだった。
「お前は何なんだ?」
「私はね、あなたの心臓。」
「へ?」
「なによ。信じないの?」
彼はさすがにまさかと思ったが、現にこういう異常な事態に直面している以上、信じる外なかった。
「で、その心臓が、なんだっていきなり喋れる様になったんだい?」
「さあ?そんな事判らないわ。でも、これでやっとあなたに積もりに積もった不満を訴えられるわ。」
「不満?」
「そうよ。あなたときたら独り身なのをいいことに、しょっちゅう夜遊びはするし、お酒は毎晩飲むし、タバコなんかのべつまくなしじゃないの。少しは体の事を考えてほしいわ。」
「うーむ・・・。」
「それになァに、普段は全然運動しないくせに、友達とスキーに行くと一日中滑ってるし・・・。こっちの負担を考えてよね。」
「なんだか、古女房みたいな事を言うんだな。」
「当たり前よ。もう三十年近く一緒にいるんだもの。それに私は今までの間一言も文句を言えなかったのよ。まとめて言いたくもなるわ。」
それから数時間、彼はいつはてるとも知れない彼女のグチを聞かされるハメになった。なにしろ、どこへ逃げてもムダなのだ。
彼は不愉快になり、やがて腹が立って来た。しかし、彼にはどうする事も出来ない。ひっばたこうものなら彼の方が痛いし、何よりも彼は、彼女がいなければ生きて行けないのだ。
彼は考えた。
えらい事になってしまった。これから死ぬまでずっとこんなグチを聞いて過ごさなければならないなんて、冗談じゃない。ストレスがたまって、それこそ体をこわしてしまう。
それなら、こっちも開き直ってしまおう。こうなってしまったものはしょうがない。俺も言いたい事を言ってやる。あわよくば亭主関白になれるかもしれないし、そうはいかないとしても、こっちが下手に出てやることはない。
ようし・・・!
彼は大きく息を吸い込み、彼女のいるあたりをキッと睨みつけ、怒鳴った。
「いいかげんにしろ!」
彼女がビクッと身をこわばらせたので、彼は一瞬息がつまった。
「な、なによ、いきなり。」
「ブーブー文句をたれるなというんだ。」
「なによその言い方。あなたの不摂生のせいで私に負担がかかってるのよ。」
「所詮お前には俺しかいないんだ。黙ってろ。」
「まあ、なんて事言うの。私が片時も休まず働いてるからあなたが生活できるのよ。」
「なんだと!黙っていればいい気になりやがって・・・。」
結局、その夜は大喧嘩になった。その喧嘩は深夜までえんえんと続いたが、明け方近くなるとさすがの彼女も疲れて黙ってしまい、彼もふてくされて寝てしまった。
そして彼は、二度と起きる事が出来なかった。
彼女が彼に愛想をつかして、蒸発してしまったのだ。