ある休日の昼下がり、おれの部屋にノックの音がひびいた。
セールスマンだ。なぜって、そういうやから以外にこんなボロアパートにあるおれの部屋にノックして入ってくるやつなんていないからだ。
「消火器は間に合ってるよ。」
そう言いながらドアを開けると、すぐ前に男が一人立っていた。
「消火器のセールスではありません。」
男は地味なスーツに身をかため、面長の顔に銀縁の眼鏡をかけ、髪は七三に分けている。消火器というよりも、銀行か証券会社という感じだ。
「株や貯蓄にも興味はないよ。」
「そういったものでもありません。」
「車とか百科事典とかも・・・」
「それでもありません。」
さて他にどんなものがあったろうかと考え、おれは一番やっかいなものを思いついて、それを口にした。
「おれは、神様は信じないよ。」
男はそれを聞くとニッコリと笑った。
「それは結構なお心がけです。実はわたくし、こういうものでして。」
男が差し出した名刺は思いきりシンプルだった。まんなかに大きな角ゴシック体でただ二文字、こう書いてあった。『 悪 魔 』
おれはあんぐりと口を開け、上目使いに男を見た。
男は大きくうなずくと、またニッコリと笑った。
「お疑いになるのも無理はありません。大概の方は驚かれます。」
「・・・そうだろうね。」
「しかし、いかに信じ難いことであっても、事実は曲げようもありません。これ、この通り。」
そう言って、男は尻から真っ黒い蛇のようなものを出して見せた。先端は矢じりのようになっていた。まさしく悪魔の尻尾だった。とても作り物とは思えない。信じるより他はなさそうだった。
おれは目を丸くして、男をまじまじと眺めた。
「しかし、ちっとも悪魔っていう感じじゃないなぁ。」
「今の世の中、わざわざ我々を呼び出そうとして下さるような奇特な方は全くいらっしゃいません。我々も仕事ですから、最近はこちらから需要のありそうな所へお邪魔するようになったのです。そうなりますと、やはり身だしなみはそれぞれのTPOに合わせるようにいたしませんと、色々と問題も多いですから。」
「なるほどねェ・・・。だけど、おれは悪魔には用はないよ。」
「そんなことはないでしょう? 願いごとのない人など、そういるものではありません。」
「そりゃあ願いごとは沢山あるけどね。魂をとられるってのはゾッとしないからな。」
「いえいえ、あれは人間のつくった迷信です。我々は魂などいただきません。大体、魂など受けとってどうするというのです?」
「そう言えばそうだな。・・・だけど、そうすると何を持ってくんだい?」
「何もいただきませんよ。」
「それじゃ、タダで願いをかなえてくれるっていうのか? そんなうまい話がこの世にあるもんか!」
「実際に悪魔が存在するんですから、うまい話があってもおかしくはないでしょう?」
「・・・そういうもんかな?」
「そういうものです。」
おれは結局悪魔を部屋へ上げてしまった。
どんな願いごとにしようかと考えながら、おれは念を押した。
「本当に、魂も何も取らないんだな?」
「ええ、わたしは人間ではありませんから嘘は申しません。何もいただきませんよ。しかし、人間は全ての望みがかなってしまってはかえって不幸せになるとも言います。あなたが後悔することになるかも知れませんが、そこまでは保証しかねます。」
そう言われておれは少し考えたが、やはりこのチャンスを逃すのはあまりにも惜しいと思われた。
「後悔したらしたでその時のことだ。ものは試しって言うからな。」
「わかりました。それでは、とりあえずこの散らかっている部屋をきれいにしましょうか。」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ! そんなことに願いごとを使っちまうなんてもったいないじゃないか!」
「そんなことはありません。何回と決められている訳ではないんですから、どんどん使ってしまって構わないんですよ。」
「そ・・・、そう言えばそうか・・・。」
悪魔がパチンと指を鳴らすと、次の瞬間、おれはきれいに整頓された部屋にいた。カーテンも洗濯されたようで、部屋が明るくなった感じだ。おれは呆然と辺りを見回すばかりだった。
悪魔は少し得意気に言った。
「どうです。ちょっとしたものでしょう?」
おれはバカみたいにうなずいた。
「まったく、ちょっとしたもんだ。・・・本当に何でも願いごとがかなうのか?」
「何でもというわけには行きません。悪魔の力にも限界はあります。わたしはそれほど大した悪魔ではないので、世界人類を平和にとか、新たに大陸を出現させろとか、そういった大がかりなものはとても無理です。」
「ふーん・・・じゃ、。おれを石油大国の王様に、なんていうのはどうかな?」
「それ自体なら何とかなるでしょうが、いきなり王様が交替したら色々と問題が出て来るでしょうし、第一あなたはその国の言葉が解らないでしょう。難しいですね。」
「なるほどな。・・・うーむ、どうしたもんか・・・。」
意外に難しいと判った願いごとをおれが深刻に考え込んでいると、悪魔は明るい声で言った。
「おなかはすいていませんか? とりあえずおいしい料理でも出しましょうか。」
「ん? ああ、そうだな。」
悪魔は再び指を鳴らし、真っ白いテーブルクロスの上に豪華な料理の数々が現れた。
おれはふと『奥様は魔女』というドラマを思い出しながら料理をぱくついた。
結局おれは都合よく運びそうな大きな願いごとを考え出すことが出来ず、悪魔を部屋に居つかせてひとつひとつ適当な願いをかなえさせるようになった。これはこれで気分のいいものだった。なにしろ欲しいと思った物は大抵手に入るし、行きたい所があればすぐに行ける。要するに、おれが得をしてもまわりに問題が起きないようなことならば、何でも出来る訳だ。
だがそれも長くは続かなかった。ある日おれが新車を出させると、悪魔は突然胸をおさえてうずくまってしまった。
「おい、どうしたんだ?」
しばらくすると、悪魔はホッとため息をついて立ち上がった。
「どうも、さすがに辛くなってきたようです。」
「・・・どういうことだ?」
「悪魔というのは、自分の精気を使って願い事をかなえるのです。そろそろわたしの精気も尽きてきたようです。もう長くはもたないでしょう。」
「精気が尽きると・・・、その、死んじまう訳か?」
「まあ、そういうことになります。天に召されるのです。」
「・・・悪魔って随分ひどい商売なんだな。」
「仕方がありません。これも人間時代の不徳の致すところです。」
「あんた、人間だったのか!?」
「そうですよ。産まれたときから悪魔だなんて、そんな理不尽なことはありません。悪魔というのは、人間時代の罪に対する罰として与えられる役割なのです。」
「なるほど。刑務所の強制労働みたいなもんか。」
「そういうことです。」
「しかし、罪って一体何をやったんだい?」
「そうですね・・・。まあ、人を殺した・・・ということになりますね。」
「へぇえ、随分すごいことをやったんだな。そんな風には見えないけどな。」
「そうでもありませんけどね・・・。」
それからしばらく、おれは願い事をするのをやめた。悪魔の精気がほとんど残っていないとなると、願い事は慎重に選ばなくてはいけない。ここはひとつ慎重に計画を練って、最後に大きな成果をあげたいところだ。
色々と考えたが、何が欲しいかと言われれば、やっぱり金だ。悪魔がいなくなっても、金さえあれば大抵のことは出来る。しかし、困ったことに悪魔は直接金を出すことは出来ないらしい。それはそうかも知れない。金の場合、どんなに精巧なものを悪魔が作り出したとしても、偽札は偽札なのだ。そうなると、ちゃんと造幣局が発行した金をどこかから持ってくることを考えた方がよさそうだ。おれはさんざん考えた末、名案を思い付いた。どこか遠くで銀行強盗をやり、悪魔におれをここまで運ばせるのだ。それからアリバイを作れば、完全犯罪になる。
「出来るか?」
「おそらく。しかし、それで最後になると思います。」
「わかってるさ。じゃあ、頼むぞ。」
「わかりました・・・。」
作戦は大成功だった。
おれは遥か遠くの街で、以前悪魔に出させた拳銃を手に銀行に押し入り、まんまと大金をせしめた。そしてその5分後の今、既にこの街に戻って来ているのだ。これから行き付けの喫茶店に行ってマスターと話でもすれば、それで完璧だ。
俺を送り届けた悪魔は最後の精気を使い果し、苦しげにうめいて倒れた。
「・・・いよいよ、お別れです。」
「ああ、世話になったな。別に後悔することにならなくてよかったぜ。」
「・・・いえ、これから、後悔することに、なるかも・・・、知れませ・・・・・」
そこで悪魔は事切れ、煙のように消滅・・・しなかった。
おい、ちょっと待て。この死体をどうしたらいいんだ? おれがこの悪魔と一緒にいるところは管理人なんかに何度も見られているし、第一、このやつれた死体は何日も監禁されてたみたいじゃないか。・・・おい、ちょっと待ってくれ。冗談じゃないぞ! おいっ・・・!