昔、昔の物語。
その村のはずれにある小屋には、とんでもない大悪党が住んでいた。その悪党は、およそ悪事と思われることなら何でもやった。ゆすりたかりから詐偽、盗み、そして殺人。悪党は、それらを何とも思っていないどころか、心からの楽しみとしていたのである。人の嫌がること、人の恐れること、人を苦しめること、痛めつけること、蔑むこと、冒涜すること。悪と名の付くものは全て悪党の喜びに結び付いた。そして、悪党にとってもっとも忌むべきもの、価値のないものは、数々の美徳だった。
悪党は、村のはずれを通りかかる旅人を掴まえてなぶり殺しにしては、金品を奪い取っていた。馬車で通りかかった金持ちだろうと、道で行き倒れた貧乏人だろうと、悪党の犠牲者になることに変りはなかった。悪党は屈強な男をずる賢いやり方で殺すのも好きだったし、か弱い女や子供を力ずくで叩き殺すのも好きだった。命乞いの声や恐怖のこもった悲鳴は悪党にとって甘美な音楽だったが、彼に憐憫の情を興させることはなかった。
今日もまた一人、旅人が殺された。
悪党の手にかかった犠牲者は大変な数に上っていたが、村人たちは彼を恐れて近付くことが出来なかったのだ。
しかし今日、悪党がまだ血を流している旅人の死体を運び出そうとしているところへ、訪ねてきた者があった。
「ごめんください。」
ドア越しに聴こえたのは、若い男の声だった。
悪党は顔を上げて応えた。
「今忙しい。帰った方が身のためだぜ。」
「あなたに大切な用があるんです。会っていただけるまでは帰りません。」
その声には緊張が感じられた。
「面白いことを言うやつだな。」
悪党は死体をドサリと放り出し、ドアを開けた。
立っていたのは若い神父だった。その瞳には使命感が燃えていた。
『神』だの『聖』だのという文字がつくものは、悪党が最も嫌っているものだった。悪党は皮肉に口元を歪めて若い神父を睨んだ。
「こりゃまた、俺に最も不似合なお方がいらしたもんだな。用があるってからには、俺のことを知ってるんだろう? 命が惜しくないのかい? それともくそったれな神様のご命令で、この俺を成敗しに来たか?」
「滅相もありません。私にはあなたを裁く権利などありません。ただあなたにお話を聞いていただきたくて…うっ…!」
神父がハッとして口を押えたのは、悪党の背後にある死体が目に入ったからだった。
悪党はそれを見て面白そうに笑い、一歩退いて神父に道をあけた。
「お話をね。なるほど。それじゃあ、家の中で聞くとしようか。」
神父はしばらく見えない何かと戦っているようだったが、やがてハンカチを出して額の汗を拭い、決然と悪党の家に踏み込んだ。
「まあ、その辺に座るといい。お客が来るとは知らなかったんで、ちょいと散らかってるけどな。」
そう言うと悪党は、また心から面白そうに笑った。
神父は椅子に座り、悪党をまっすぐに見据えて話し始めた。他のものは見たくないというように。
「お話と言うのは他でもありません。あなたのなさっているこの…、この、悪行のことです。あなたはすぐに悔い改め、神の許しを乞わなくてはなりません。」
悪党はさも驚いたというように目を丸くしてみせた。
「悔い改める? どこにそんな必要がある? 神だと? どこにそんなものがいるんだ?」
「全能なる神は全てを御存知です。あなたはきっと、自らの行いを後悔することになります。」
「馬鹿言っちゃいけないぜ。俺は今、充分楽しんでる。神だか何だかが俺のやることが気に入らないってんで俺を殺しに来たら、その時はその時さ。」
「考え違いをなさってはいけません。慈悲深い神は、悔い改める者全てをお許しになります。神はあなたが自ら気づいて悪徳を捨て、美徳に生きるようになることをお望みなのです。」
悪党の目が意地悪く細まった。
「ほほう? 随分知った風な口をきくじゃないか。それじゃあお前さん、その神に頼まれて俺を説得に来た、代理人ってわけかい? ご大層な話だな。」
若い神父は辛抱強かった。
「私はただ、神の教えを学ぶ者に過ぎません。ただ、あなたも神の教えに目を向けて正しく暮らすように、助言を差し上げることは出来ます。」
「大きなお世話ってやつだな。早い話が、布教の旅の途中で俺の噂を耳に入れて、お節介かたがた腕試しに来たわけだろう?」
「腕試し?」
「自分がどれだけ人の目をくらます腕を持っているかってことをさ。神父ってのは結局のところ、そういう商売だからな。」
若い神父はサッと顔を紅潮させたが、丁寧な態度は崩さなかった。
「それは誤解です…! あなたは間違っている。」
悪党は追い打ちをかけるように身を乗り出した。
「大体お前さん、神なんてものが本当にいると信じてるのか? おめでたい話だぜ。一体何を根拠にそんなことを言い出すやつがいるんだ? どこにも証拠なんてない。誰も見た者がいない。そんなものを、どうやって信じられる?」
「神は…、神は、全ての創り主です。世界の存在が、人間の魂の存在が、その証拠です!」
「魂が証拠だって? それじゃあその魂ってやつは誰が見つけたんだい? 一体どこにあるってんだい? どうやら目を覚まさなきゃならないのはお前さんの方だぜ。神だの魂だのってのは、要するに昔からの言い伝えだ。そういうものがあることにしておいた方が馬鹿どもを大人しくさせておくのに都合がいいから、さもありがたそうに言い伝えられてきただけのことだ。ことわざだの格言だのと同じさ。で、お前さんもよっぽどの間抜けじゃなければ、ことわざだの格言だの言い伝えだのってものが、どれほどいい加減で信用出来ないものかってことは知ってるだろうが?」
悪党にたたみかけられ、若い神父は両手をわなわなと震わせていたが、やがて悲しげに一つため息をつくと、あらためて悪党の目を見据えた。
「わかりました。あなたに今すぐ神の教えに目を開いていただこうというのは性急なのかも知れません。それではせめて、今のあなたの行いを改めてください。あなたの非道な行いは数多くの人々を苦しめ、おびえさせています。そんなことをして何になるというのです? いたずらに自らの心を荒ませるだけではありませんか?」
悪党は落ち着き払っていた。
「何になるのかって? こりゃ面白い問いだな。俺の楽しみになるに決まってるじゃないか。沢山の人間が苦しみ、泣き叫ぶことこそ俺の喜びだ。馬鹿者が血反吐の中をのたうち回る姿こそ、一番俺の目を楽しませるものだ。いかにも俺の心は荒み切っているだろうよ。だからどうしたってんだ? それでいいじゃないか。お前さんの知ったことじゃないぜ。」
神父は声を震わせた。
「何ということを…! 人を苦しめ、殺すことが楽しみだというのですか? あなたには慈愛の心というものが、かけらもないのですか!?」
「ないね。そんなものは必要ない。邪魔なだけさ。馬鹿者どもは、そんな余計なものをちょいとばかり持っているために、うじうじと迷ったりいじけたりするんだ。俺にはそんなものはない。俺の心を満たしているのは、楽しみを追い求める衝動だけさ。もっとも、残念ながら実際にはちっぽけな楽しみしか味わえていないがね。」
「そんな! これだけの悪行を重ねて、まだ満足していないというのですか!」
「へっ、笑わせるな。俺のやっていることなんか、ほんの子供騙しみたいなもんだ。本当に俺がやりたいのは、もっとでかいことだ。そこらじゅうにある気取った美しいものを、根こそぎひっくり返してやることさ。河を糞だらけにして魚をみんな殺し、草や花を全部枯らして腐らせ、森を砂漠に変え、空に穴をあけて鳥を骨にする。さぞいい眺めだろうなあ。」
若い神父の顔は青ざめた。
「何という…、何という恐ろしいことを考える人だ…! 魔王サタンでもそこまでのことは望みますまい。しかし、いくらあなたでも、それを実現することは出来ないでしょう。」
「ああ、さすがの俺でも、そこまでは出来ない。だから、せいぜい俺に出来る悪行に精を出すことにするさ。しかしな、今に見てろよ。人間の本質ってのは詰まるところが悪党なんだ。いつかは世界が俺みたいな悪党だらけになって、俺が今言ったような面白い景色が、あちこちで見られることになるだろうぜ。楽しみなこった!」
そう言うと悪党は、胸をそらせて高笑いした。いつまでも続くかと思われる、悪魔のような笑い方だった。
若い神父は拳を握り締め、立ち上がって叫んだ。
「そんなことを、神がお許しになる筈がない!!」