ショートショート作品 No.046

『高級な場所』

 「高級居酒屋」という看板にとくに注意を払わずにのれんをくぐったのは、あるいは失敗だったかもしれない。ちょっとした違和感は、店に一歩足を踏み入れた時から感じられた。
 宵の口の、かなり混む時間のはずだが、店内はいたって静かだった。カウンター、テーブル席、座敷ともに半分ほどが客で埋まっている。話し声がさわさわと響いてはいるが、混雑した居酒屋の喧騒というイメージからはほど遠い。
「お一人様ですか?」
 私は少しだけ躊躇したが、すかさず応対に出て来た女性従業員の落ち着いた微笑みに促され、そのままカウンター席に座った。近ごろよく耳にする「一名様」などというわけのわからない日本語でなく、正しく「お一人様」と言った女性従業員に対して、良い印象を持ったからということもあるかもしれない。
 メニューを開くと、看板の「高級」の文字が少なくとも洒落ではないことが判った。目の玉が飛び出る、という程ではないにしろ、通常の店の相場よりは明らかに高い。並んでいる品目を見てもとくに変わったものがあるわけでもなさそうなので、余計にそれを感じる。私は努めて警戒心を喚起し、先の女性従業員(なかなかの美人)に対して「とりあえず」と前置きした上で、生ビールの小ジョッキと無難そうなつまみを二品だけ注文した。女性従業員はそれを丁寧に伝票に書き取るとまたにっこりと笑顔を見せ、「かしこまりました。少々お待ちください」と言って下がった。ことさらに「とりあえず」などと強調することはなかったようだ。何にとはなしに、私は少し気恥ずかしさを感じた。
 生ビールのジョッキは凍っていた。しかし取っ手の部分は凍らせずに、手拭いが巻いてあった。私はビールの味などわからないが、そのビールは妙にうまく感じた。ビール自体はキンキンに冷えているというわけでもなく、通常よりも多少冷たいかという程度なのだが、ジョッキの冷たさがそうさせるのか、非常に喉越しが爽やかなような気がした。なるほどうまいというのは味だけではないのだな、いや、むしろ味のわからない人間にはこういった気配りの方が有効なのではないか、などと考えていると、つまみが出来て来た。しゃれた小鉢の中にちんまりとまとまった白和えにはゴマが、造りにはネギと生姜がふんだんに使われていた。薬味を惜しみなく使っているというだけで、何となく贅沢な印象になるのは不思議なことだ。確かにそこらの店で出すつまみとは一味違うらしい。調理人こだわりの一品、というやつかもしれない。
 そこはかとなく余裕を感じるビールと料理をつまんでいるうちに、私はだんだんとくつろいだ気分になって来た。先程の女性従業員(結構な美人)は、他数人の従業員とともにくるくると、しかし落ち着いた様子でよく働いていた。色々なものが好もしく感じるのは、酔いせいではないだろう。そもそも、まだ酔うほどには飲んでいない。周りにいる他の客たちも、酔って大声を出す者も連れに絡む者もおらず、身なりもきちんとして、みな楽しげに談笑しているように見える。店全体を包む空気に、品があるように感じられた。私はそんな客たちの歓談の仲間に入りたいような気がして、自然と話の内容に耳を傾けはじめた。初老の紳士は、若い頃の自分の体験談を楽しげに語っていた。その横でたばこをくゆらせている中年の男性が、興味深そうに聞き入っている。会社帰りのサラリーマンと思われる一団は、しきりに経営論についてジョークを飛ばし合っている。小意気な服装に身を包んだ若いカップルは、意外にも今度の選挙について話していた。女性の方が現官房長官をある俳優のスキャンダルに引っかけて皮肉った時には、私も思わず口元が緩んでしまった。どの客も、話しぶりや言葉づかいにどこか品があるように思えた。私はいよいよ気分が良くなって来た。小ジョッキが空になった。
 先程の女性従業員に目くばせをして、酒とつまみを今度はたっぷりと追加注文しようとした瞬間に、私ははたと気がついた。私は先月、翌月払いのカード決済でオーディオコンポを買っていたのだ。更につい昨日、今度は現金でレーザーディスクをたんまり買い込んでしまった。小遣いは既に底を突いていて、財布の中には高額紙幣が一枚も入っていないのだ。私は慌てて女性従業員から目を逸らし、思わずうつむいた。自分の頬が赤らんだような気がした。
 客たちの話し声は、相変わらずの調子で聞こえて来る。私はなんとか気持ちを落ち着け、また周りの話し声に耳を傾けて気分を良くしようと試みた。しかし、どうにもそうは行かなかった。改めて聞いていると、上品そうな客たちの話の内容が、結局は他愛のない自慢話や他人の噂話などに終始していることに気付いてしまったのだ。会社や政治に対する穏やかな批判も洒落たジョークも、要するに自慰的な愚痴と同じことなのだ。他人を楽しませるために話しているようなポーズを作りながら、根底にあるのは自分を大きく偉く見せようとする子供じみた虚栄心と、陰で皮肉を言うことで相手を貶めようとする下衆な根性なのだ。つまり、話していることは巷の「安っぽい」居酒屋で騒いでいる連中と全く変わらないということだ。逆に、当人たちは乙にすましたつもりでいるだけ始末が悪く感じられ、私はそこにあるさり気ない傲慢さに吐き気のする思いだった。
 私はしばらくうつむいて何かに耐えていたが、やがて踏ん切りをつけて顔を上げ、今度ははっきりと目くばせをした。女従業員が近づいて来ると、私はきっぱりと「お勘定」と言った。
 女従業員は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに例の落ち着いた笑顔に戻って、伝票をレジへ持って行った。
 勘定を払う段になってみると、やはりこの店の値付けは高かった。酒にしろ料理にしろ、多少手がかかっているとは言っても、充分それ以上に高い値がついている。私は腹が立ってしようがなかった。多少の付加価値で高い値付けを押し通すという店のやり方にも腹が立ったが、それを有り難がって集まり、何やらいやらしいものをたれ流し合って喜んでいる客たちに対して、無性に腹が立った。
 私はやたらに腹立たしく、そしてこの上なくみじめな気持ちでのれんをくぐり、軽い財布をポケットに、とぼとぼと家路をたどった。私は家に帰りつくまでずっと、日本という国が本当に豊かになったのかどうか、という問題を考え続ける羽目になった。


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