15日午後、まずはユージ宅にて版下作成の作業が行われた。今回の本は編集長真皆の意向で両面割り付け中綴じ式で行くことになっていて、ページ割りを計算して組み合わせたコピー原稿を用意しなくてはならないのだ。ノンブルに関してはこの段階まで二人とも何も考えておらず、「最悪、手書きでもいいかぁ」などと開き直っていたのだが、結局はワープロで作成してプリンタ出力した数字を手作業で切り貼りすることになった。パソコン通信で集まった仲間が電子メールで打ち合わせ、CGソフトで画像を処理してバイナリデータで入稿、画面上で編集作業までしてレーザープリンタで出力という、言わば先進的デジタルパブリッシングでここまで来たというのに、ノンブルはカッターとノリで手貼りなのである。この辺が実に、情けないというか「らしい」というか…。
「ああっ、ズレた。」とか「ゲッ、ノリがはみ出した!」とか言いながら作業は進み、出来上がった原稿をバサリと置いたら細かく切ったノンブル用数字がわっと舞い上がるというお約束などを折り交ぜながら、どうにかコピー原稿は完成した。
「念のため、本番のコピーに行く前に一回試しておくか。」
ユージ宅にも一台古びたコピー機があり、印刷品質はボロボロであっても一応稼働はするということで、試しにこれを使ってサンプル本を一部だけ作ってみることにした。一枚ずつ両面にコピーしたページを順番に重ね、半分から折って、その折り目をホチキスで留める。お試し版ではあるが、『全脳連通信』第一号の完成である。ホイ、と手渡されて、少々の感動を覚えながら内容を確認するユージ。なるほど、確かに本になっている。…と、突然ユージは大笑いして本を取り落とした。仰天する真皆。
「な、なんだ、どうした?」
「わはははははは! 違ってる。」
「なにーぃ!?」
真皆が慌てて確認すると、確かに途中でページ番号がすっ飛んでいた。一瞬青くなる真皆だったが、ややあって落ち着きを取り戻し、やはり笑いながらホチキスの針を外しにかかった。
「わはははははは! 大丈夫、一枚裏返しになってるだけだ。」
「なんだ、そうか。わははははははははははははは!」
二人とも寝不足のせいか、どうにも笑いが止まらない。笑いながらもページを揃え直して改めてホチキスで留めると、結果はバッチリ予定通りだった。
「わはははははははははは! OK。」
「わはははははははははは! よし、出動だ!」
荷物をまとめてコピー作業に出発しようとする二人。しかしそこで、ふと気がついたというように真皆が立ち止まった。何ごとかと思ってユージが見ると、真皆は今しがた片付けたばかりのコピー機のカバーを外し、原稿台のフタを開いた。そこから、コピー原稿の最後の一枚がピラリと出て来た。置き忘れていたのである。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ! なんてありがちな。」
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! 大マヌケ。」
ここまで「お約束」を連発するというのも、なかなか大したものである。更に笑いが止まらない状態で、二人は本番コピー作業に出かけて行った。
目的地は、新しいタイプのDPEショップ。通常の写真に加えデジタルカメラのデータも受け付けていて、マグカップやTシャツへのプリントの他、画像の加工もOK。一角にはデジタルカラーコピー機とプリクラも置いてある。もはや「DPEショップ」ではないのだと思うが、正確には何と呼んでいいのか判らないので、とりあえずここでは考えないことにする。ユージと真皆の目当ては、もちろんここにあるカラーコピー機だ。
問題のカラーコピー機はミノルタ製。昨年末にセブンイレブンに導入されたものと同じタイプである。フルカラーモードとモノクロモードを持ち、コストはカラーでも一枚100円、モノクロなら従来通り一枚10円と安価なことで、同人界(の一部)で話題を呼んだのだそうだ。仕上がりはモノクロモードであってもカラーコピー機独特のツヤのある感触で、使用する紙もカラーコピー用のスーパーホワイト紙であるため、かなり高級感が出る。デジタルコピーなので細かい文字などもクッキリ出るし、同人誌作りには最適の機材かもしれない(メーカーはまさかそんなことを考えて作ってはいないと思うが)。
ここにあるコピー機は直接硬貨を投入して使う方式になっているため、ショップの受付で紙幣をジャラジャラと両替してもらい、ユージと真皆はコピー作業にとりかかった。まずは、真皆所有のPM-700Cでカラー出力した表紙(及び裏表紙)をフルカラーモードでコピーする。仕上がりは満足の行くものだった。色の再現性も非常に良好である。ユージ描くところの表紙は比較的地味な色調であるためプリンタ出力の時点で少々薄い印象になってしまっているが、真皆描くところの裏表紙は予め濃いめの色使いをしてあって、非常に美しく出ている。カラープリンタでの出力を前提にイラストを描く場合は、全体の色調を濃いめにしておくのがコツのようだ。
表紙の印刷が終わったら、次はいよいよ内容のモノクロ部分の印刷作業スタートである。これもまた、なかなかの仕上がりだ。目の覚めるような白さの用紙にツヤのある黒がクッキリと乗り、広めのベタ*部分にも大きなムラは見られない。あまり「コピーらしくない」独特の感触が、ちょっと嬉しい感じである。
そろそろ最初のページの表部分が刷り上がるかという頃、我々のコピー作業をじっと見ている人がいるのに気付いた。
「コピー、使われるんですか?」
真皆が声をかけると、その年配の女性は遠慮がちにうなずいた。
「ええ、でもまだ終わらないならいいんですよ。」
「いえ、我々はまだだいぶかかりますから、どうぞお先に。これが止まったら空けますから。何枚ですか?」
「2枚なんです。」
「ああ、それならチャチャっとやっちゃいましょう。」
一応ショップの人に話を通してあるとは言っても、ユージと真皆がコピー機を借り切っているわけではない。親切なのか図々しいのか、二人はこの女性を半分急かすような調子で世話を焼いた。
「あ、お金は我々が沢山入れちゃってるんで、こちらに20円いただければいいです。モノクロでいいんですよね? 原稿はどれですか?」
女性は少々戸惑ったような様子を見せたが、早々に観念した様子で原稿を出した。
「あの、これって手挿しでコピー出来るんですよね? どこから入れればいいのかしら。」
「ああ、手挿しならここを開けて、ここから入れるんです。で、こうやって手挿しモードに切り替えて…。コンビニなんかだと手挿しコピーさせてくれないところが多いんですよね。それの裏に印刷するんですか?」
仕事柄このコピー機に詳しい真皆は、ここぞとばかりに仕切りまくる。
「ええっと、こっち向きでいいのかな?」
「いや、これがこう出てくるわけだから、印刷面を下にしてこうだろう。」
「ん? あ、そうか。ここにもそう書いてあるわ。なるほど。」
既に当の女性をそっちのけにして作業を進めようとする二人。女性はちょっと不安になったようである。
「あの、上下は逆さまになってもいいですから…。」
「そうですね、表裏さえ間違えなければ。」
「でも、多分これで合ってますよ。行ってみましょう。」
二人はまるで気にしない様子でコピー機を動かした。結果はバッチリ。女性はホッとして財布から20円を出し、真皆に渡した。思わず「毎度ありぃ」と言いそうになって慌てて口をつぐむ真皆。ユージは最後に深々と頭を下げた。
「どーも、ご迷惑おかけして申し訳ありません。」
「いえそんな、助かりました。」
女性はそそくさと立ち去った。
ユージと真皆は女性を見送ると、顔を見合わせた。
「なるほど、手挿しトレイの場合はこっち向きに置けばいいんだな。」
「うんうん、これで裏面の印刷も、テストなしでバッチリだ。」
「いやー、ラッキーラッキー。」
善良な市民をも利用してしまうヲタクの執念、恐るべし。
二人は早速、手挿しトレイを使って最初のページの裏面の印刷に取りかかった。もちろん用紙の向きに不安はない。印刷は順調に開始された。開始はされたのだが…。
「…遅い。」
そう、遅いのである。ミノルタのカラーコピー機は、カラー印刷が綺麗で安いのはいいのだが、モノクロ印刷が遅いという声が多い。ユージと真皆も予めそれは聞いていて、ある程度覚悟はしていたのだが、まさかこれ程とは思っていなかった。しばらく腕時計を睨んでいた真皆は、うめくように言った。
「一枚印刷するのに、25秒かかってるな。」
「ウチにあるボロコピー機の方がずっと速いぞ。最低でも分4枚って言ってなかったか?」
「おかしいなあ…。分3枚だったのかなあ。」
「それじゃあ私の5万円のレーザープリンタより遅いぞ。どうなってんだこりゃ。」
「どーもこーも、目の前で起きている事実はいかんともし難い。」
「大体、デジタルコピーのクセに複数枚の印刷で毎回スキャニングするのが気に入らん。バッファメモリをケチッてるんじゃないのか? それともソフト開発の怠慢か?」
「まあ、高級機種じゃないしなあ。」
「それに、完全に一枚排紙し終わってから次の一枚をローディングするのも気に入らん。普通、連続コピーだったら定着の段階で次のローディングを始めちゃうもんだろう。」
まったくヲタクは、文句のつけどころが具体的で細かい。そもそもこんなに連続して大量のコピーをすることなどメーカーは想定してない可能性も大きいのだ。
「まあ、一回完全に用紙をドラムに貼り付けちゃう方式だから、そういうことをやりにくいのかもなあ。」
なぜか言い訳がましくなっている真皆をよそに、ユージは愛用のパームトップコンピュータを取り出して計算を始めた。
「このペースで残りの予定枚数をこなすとなると…、最低でも二時間半かかるぞ。」
「この店は午後8時までだから…、ギリギリだな。」
「いや、だってこの計算には用紙を取り替えたりする時間は入ってないんだぜ?」
「だとすると…、明日もまたコピー作業ってことかあ?」
「そういうことになるな。」
「…とりあえず、部数を減らして刷って、今日の分だけでも本になるようにしておいた方がいいんじゃないかな。」
「OK。少々効率が悪いが、致し方ない。それで行こう。」
二人は当初の予定を変更することにして、今やスローモーションのカタツムリのように見えるコピー機の現在の作業が終わるのを待った。とにかく、次のページから印刷枚数を半減するのだ。表裏を交互に印刷してページを一枚ずつ仕上げていくやり方なので、次はまたカートリッジ給紙で白紙から印刷する表面である。
「…よし、枚数を減らして…、スタート。」
コピー機は快調に動き出した。そう、快調に、である。
「…あれ? 速いじゃん。」
「ほんとだ。さっきと全然違うぞ。」
「そう言えば、最初に表面を印刷した時にはとくに遅いとは感じなかったんだよな。」
「一枚…、5秒だな。何なんだ一体。」
「つまり、手挿しトレイからの給紙だと遅いってことか?」
「しかし、ここまで違うというのは…。」
「納得は行かないが、事実はいかんともし難い。」
「じゃ、裏面印刷の時は、用紙をカートリッジに放り込んじまえばいいってことか?」
「それ、ナ〜イス。」
本来許されることなのかどうか定かでないが、二人は躊躇なくコピー機の給紙カートリッジを引っ張り出し、表面を印刷し終わった用紙をセットした。カートリッジ給紙の裏面印刷の結果はバッチリ。もちろん速度が落ちることもない。
「おーっ、快調じゃん。このペースなら…っと、部数を減らさなくても1時間くらいで終わっちゃいそうだ。」
「うーむ、よしよし。」
この後コピー作業は計算通り順調に進み、一般客が現れることもなく、着々と出来上がりページが重なっていった。表面の印刷が終わると、すかさず真皆が排紙トレイにある用紙をひっくり返して給紙カートリッジにセット。その間にユージが原稿を入れ換え、設定ボタンを操作して、裏面印刷スタート。連携プレーも華麗に(と本人たちは思っていた)決まるようになって来ていた。
しかし、ここでまた思わぬ落とし穴が…。
「…なんか、印刷薄くないか?」
今出来上がったページをまじまじと見て、ユージはそうつぶやいた。
「そう? こんなもんだと思うけどな。」
真皆はあまり気にならないようだ。ユージは今一つ納得行かない様子で、次のページの印刷をスタートさせた。出て来たページを取ってみて、ユージは改めて確信を得たように言った。
「やっぱり、これは明らかに薄いよ。最初の方のやつと比べてみようぜ。」
真皆はバッグから最初に印刷したページを取り出した。並べてみると、その差は歴然だった。最初のページはツヤのある黒々とした仕上がりなのに対して、今刷り上がったページはいかにもコピーという感じのざらついたグレーで仕上がっているのだ。
「トナー切れか?」
「いや、それなら警告が出るはずだよ。」
メンテナンスハッチを開けて確認してみたところ、トナーは充分に残っていた。設定で濃度を上げてみたが、印刷結果は何ら変わらない。ユージは深刻な面持ちで腕組みした。
「こりゃ、もっと物理的かつ根本的な問題だな。」
「…熱かな?」
「でも、そんなにムチャな枚数刷ってるわけでもないだろう。たかだか数百枚だぜ?」
「しかし、事実はいかんとも…。」
「むーん…。」
ここで真皆はおもむろにコピー機の電源を切ってメンテナンスハッチを全開し、ドラム部分を引っ張り出してあおぎ始めた。ちょっと店の人には見られたくない光景である。ユージは半信半疑だ。
「こんなことで直るんだったら、ほとんどノリは真空管テレビだよな。叩けば直るとかいうやつ。」
「機械ってのは今も昔もそういうもんだよ。俺はMacを蹴って直したこともあるし。」
真皆は、自宅のMacが故障した時に基盤と一緒に風呂に入って、水洗い&乾燥で復活させたという経験も持つ強者である。タワー型のPC98にHDDを針金で固定して増設しているユージにも、時々ついて行けないことがある。
真皆はガチャリと大きな音を立ててドラムを元に戻し、再度電源を投入した。セルフテストの後、改めて印刷してみる。…が、結果は変わらなかった。ガックリと肩を落とす二人。
「まあ、これ以上はどうしようもないなあ。」
「うん、これでもコピー誌としては見られない品質じゃないし、今回は我慢するしかないだろう。しかし問題は、最初に印刷したページと明らかに仕上がりが違うってことだよな。こりゃ違和感バリバリだぜ。」
「まあ、それもまた同人誌らしいご愛敬ってことで。」
「仕方ないかぁ…。」
どうやら二人がそれぞれお互いと自分を納得させることに成功しかけた頃、ふと排紙トレイを見ると…。
「…あれ? なんか、良くなってないか?」
「ほんとだ。復活してるよこりゃ。」
「なんなんだ一体?」
「やっぱり、あおいだのが良かったんじゃ?」
「いや、しかしそんな…。」
納得は行かなくても、今目の前で起きている事実はいかんともし難いのだ。印刷品質は、やがて完全に復活した。残りのページは、また黒々とした仕上がりに戻っていた。その後は全く順調だった。
「よし…っと、一応、これで全部だよな?」
「うん、これで最後だ。」
「それじゃ、さっき刷って薄かったところ、少しずつでも刷り直さないか?」
「そうだな。小銭もまだ少し残ってるし…。」
かくして、印刷の薄い部分のない「プレミアム品」が10部だけ作られることとなり、それを最後にコピー作業は終了した。だが、もちろんこれで作業が終わったわけではない。今度は、またユージ宅に取って返して製本作業である。
丸テーブルの縁に沿ってグルリとページの束を並べ、人間の方がその周りを周りながら一枚ずつ手に取って重ねて行く。この「グルグルサンボ方式」(今考えた)で、まずはバラバラのページを「本」としてのセットにまとめるのだ。しかし、この方法には一つ欠点がある。作業する人間は作る本の部数と同じ回数だけ机の周りを回らなければならないので、やっているとだんだん目が回ってくるのである。ユージと真皆は二人で前後して回っていたのでそれぞれは部数の半分の回数で済むわけだが、それでも全てのページをまとめ終わった時にはほとんどバターになりそうな状態だった。
椅子に倒れ込んでしばし休憩した後、今度は製本作業…というか、要するにホチキスで中綴じする作業だ。重ねられたB4サイズの用紙を極力正確に半分に折って、その折り目に沿って二か所を中綴じ用ホチキスで留めるのである。これが案外難しい。折り目というのは当然山になり谷になりしているわけで、非常にズレやすいのだ。しかもホチキスというのは狙いを定める目印がついているわけでもないので、最終的にはほとんど勘の勝負になる。加えてそれなりに厚みのある紙の束を綴じるのだから力も入るということで、なかなかバッチリ美しくは決まらない。
「げっ、ズレた。」
「ああっ、もっとズレた。」
「うおおっ、大きくズレた。」
などと声を上げながら、パッチンパッチンと作業を繰り返す二人。そしてそれが終わると…、なんと、本の完成である。我々の本が、今、出来上がったのだ。終わりは結構あっけないものだった。
「おおっ、出来たー。」
「完成だぁー。」
B5版中綴じ28ページ+カラーカバーページ、MN-LPG制作による初の同人誌、『全脳連通信』Vol.01hが30冊あまり、二人の目の前に積み上がった。これは紛れもなく、見た目にもレッキとした、「本」である。
ユージと真皆はそれぞれに完成した本を手にとって感慨深げにパラパラと眺め、…そしてまたもう一度眺め…、さらにまたもう一度。要するに、喜びに「浸りきって」いたのである。ここには、単純に一つのプロジェクトを終えた達成感とか自らの作品への愛着とかいうことだけでは説明のつかない、一種独特の恍惚感があった。これはもしかすると、全ての作業を自分たちの手で行ったという事実から来るものなのかもしれない。もしかすると、疲れと寝不足が手伝って脳内麻薬を分泌させていたのかもしれない。…とにもかくにも、この喜びを分かち合い、今後の活動への目論見などを語り合うユージと真皆は、この場に犬四郎氏と冬雪花氏がいないことを残念に思い、そして少しだけ後ろめたくも感じていた。
「あとの二人に、早くこの本を見せたいなあ。」
「いや全く全く。二人は何て言うかなぁ。」
そろそろ夜も更けてきていたが、この場はほんわかとした幸せな空気でいっぱいだった。結局、この快感が忘れられずに、人は同人活動にズブズブとのめり込んでいくものなのかもしれない。合掌(してどーする)。
「…ん?」
この期に及んでまだ幸せそうに本を眺めていた真皆が、不審げな声を上げた。
「なんだ、どうした?」
「ユージのサインが、ない。」
「なぬ?」
ユージは慌てて手許の一冊を取って、調べた。確かに、その通りだった。ユージは作者コメントの自分のページに、手書きでサインを入れていたのだ。他の部分はワープロで作ってプリンタ出力したものだが、サインだけは日付とともに最後に手書きで入れていたのである。これはつまり、10日に真皆に渡した「二度目の出力原稿」にだけ手書きのサインを入れ忘れていたのだ。三度目に出力して予備として手許に残しておいた原稿には、しっかりと入れてあるというのに…。
呆然とするユージに、真皆はゆっくりと問いかけた。
「…どうする?」
ユージは数秒間考えた後、きっぱりと言った。
「よろしい。一冊ずつ手で書きましょう、心を込めて!」
「よしっ、よく言った!」
そんなわけで、ユージは30冊あまりの本全てのコメントページに、水性極細サインペンで一つ一つサインを入れることになった。真皆もこれに付き合って、自分のコメントページに手書きサインを入れることにした。とんだサイン会である。ユージは画数の多いペンネームにしたことを少しだけ後悔したが、とにもかくにも、こうして『全脳連通信』Vol.01hの初版本は全て「プロデューサー及び編集長の直筆サイン入り」となったのである。
数十分の後、どうやら今度こそ完成した本を前に、またしてもしばし浸りきる二人。ユージはポツリと言った。
「なんか、この本は売れるような気がするな。」
MN-LPGで本を作るのは、これが初めてである。表紙がカラーでそれなりに見栄えがするとは言うものの、薄っぺらな中綴じのコピー誌であることに変わりはない。内容はと言えばメンバーの趣味そのもので、露骨なHもなければメジャーなネタのパロディもない。要するに「ウケ線」の要素が一つもない、地味な本なのである。こういう本に関してはそもそも多くの売り上げは期待できず、下手をすると売り上げゼロということも充分にありうることを、ユージも真皆もよく知っているのだ。しかも、初めての経験でどうにかこうにかデッチ上げた本である。それなりにまとまりのある内容になったとは言え、自信を持ってこれと言える「売り」があるわけでもない。もとより「売ること」は考えずに「作ること」を楽しむのが目的だったのだ。しかし…。
「何と言うか、最低一冊は売れるような気がする。」
「そうね。俺も、ゼロってことはまずないと思うな。」
意外にまとまった本が出来てしまったショックで血迷ったのか、二人は同じように感じていたらしい。そうと判ると、真皆がすかさず言い出した。
「じゃ、いっちょやるか、トトカルチョ。」
「よかろう。」
売り上げに関する「賭け」は、以前同人ソフトを頒布していた時に仲間内でよく行われていたことである。掛け金となるのは、「CG通貨」。例えば「2CG」の負けを背負った者は、近々のうちにCGイラストを2枚描いて[OEKAKI通り]に発表、あるいはMN-LPGに提供する義務を負うのだ。
「さて、何冊売れると思う?」
真皆は久々のことで大乗り気だ。
ユージは考え考え答えた。
「そうだなあ…。本気で予想するとすれば、3冊から5冊ってところなんじゃないかと思うが…、ここは希望的観測ってことで、10冊と行こうか。」
「なるほど。実は俺も実際には3冊から5冊っていいところだと思うけど、思い切って12冊だ。」
「ほほお。」
結局のところ勝敗のルールは、売り上げが7冊から10冊だったらユージの勝ち、11冊以上だったら真皆の勝ち、7冊に満たなかったら引き分け、ということに決定した。ユージの勝ちになる範囲が最も狭いが、確率的にはいいバランスだろう。これで、サークル参加の楽しみが一つ増えたというわけだ。
16日、既に本は出来上がっているため、ユージにはもう慌てて取り組む必要のある作業は残っていなかった。のんびりとサークル参加の準備を整え、そして久しぶりにゆっくりとカタログ*をチェックすることが出来た。今回は自分でマンガを描いて本を作ったことで多少興味の対象が移ったこともあり、絵の綺麗なサークルよりも面白い内容の本を出していそうなサークルを目当てにチェックしてみた。これが結構色々とバラエティに富んでいて、興味を引かれるサークルの数もそこそこにあり、なんだか嬉しくなってしまった。コミケには色々な楽しみが詰まっているのだなと、改めて感じ入るユージであった。自分に時間的体力的な余裕がある時だけ勝手に感じ入っているのだから、全く現金なものではあるが。
今回は、マスターネットのメンバーが何人か、「17日に遊びに行きます」と表明していた。全て、コミケへの参加経験のない人ばかりである。サークル参加で朝から入場するユージは手引き(?)することも出来ないし、果たしてコミケ初心者たるゲストたちは殺人的な状況の中を無事にLPGのスペースまでたどり着くことが出来るのだろうか? 出来なかったとしてもユージにはどうすることも出来ないのだから結局同じことなのだが、とりあえず自分に余裕があるので心配してみたりもするユージであった。
さて、どうなることやら。
つづく